「もしや」と「ひょっとすると」のあいだ(2)
「どうした、なんだか苦しそうな顔をしているが」
振り向くと、上地がいた。こういう体調のときは一番合いたくないタイプの人種だった。
ほっとけ、と言ってその場を離れようとしたが、胃が痛くなってきた。そのままうずくまる。上地は近寄ってぼくを助け起こしてくれた。
「どうみても病人だな。保健室でも行くか?」
「いや、いい。いつものことだし、胃薬は持っている」
「ふむ。じゃあわが不動産の一角に案内しよう」
ということで、ぼくは上地の貸し部室のひとつにお邪魔することになった。電気ポッドに暖房、革張りのソファに麻雀卓まであると、ここはほんとうに学校なのかと疑いたくなる。
「まあ、あがれや」
「あー、おまえ、ここで地上げやってんのな」
「商談だよ。そなたもコネで安くしておくぞ?」
「けっこうだ」
ぼくは上履きを脱ぎ、ソファに腰かけた。暖房とポッドの電源を入れ、水道水を温め始めて数分、だんだんと部屋が暖かくなってくると、ぼくの体調も安定してきた。
「助かった。たぶん夜遅くまで勉強しすぎた報いだな」
「センター試験は朝早くに行われるから、そのやり方はあまりお勧めはできないぞ」
「わかってる。ただ、赤点は取りたくなかったんだよ」
それからぼくらは、沸いたお湯でお茶を淹れ、それを呑みながら談笑した。おおむね上地の意味不明な話(国際ニュースの自前の図説だとか、受験対策分析データだの)を聞き流すばかりであったのだが、その中で、唐突に、自分の彼女が暴露されたことについて、文句を言いだした。
「なんか、どこから漏れたのかわからんが、夕夏さんのことを聞きつけたやつがいて、写真見せたら顔が良くないって言われるんだよね」
「なんだそれ……ていうか、ごめん。たぶん原因おれかも」
「いと許し難きことだな。まあ過ぎたことだから、許そう」
「どっちだよ。でも、ふつうにひとの彼女笑うのはダメだよ」
「まったくだ。悪いやつとは思わんが、不愉快だったね」
ここでぼくは、このような魔界の住民であっても、好きな人を馬鹿にされると憎いという、至極まっとうな人間らしい感情を持っていることについて、考えた。それをそのまま口にすると、彼は「わたしは人間だぞ」と、まるでぼくの思考を疑うかのように言い返すが、すまない、その感覚はぼくが日常的に君に対して感じていることだ。
「そういえばさ、さいきんへんな後輩と会ったんだけどさ……」
「なんだそれは?」
ぼくは茅野のことについて、ざっくりと話した。とつぜん話しかけてきた後輩がいたこと、その後輩の創作資料を探すために協力したこと、そしていろいろ話したわりに、距離感がいまいちつかめないこと……
なぜぼくが上地にこんなことを話してみようと思ったのかはわからない。ただ誰かに話さずにはいられなかった。あまりプライベートに割り込まないで、コメントができれば誰でもよかったのかもしれない。しかし、ぼくには友達が少なかったので、こういう人種にしか持ちかけられなかっただけなのだろう。
やがて聞き終えると、上地は口を開く。
「わたしはその子にじっさいに会ったことがないから、いかんとも評しがたいのだけれど、あくまでそなたの言ったことをベースに考えると……」
「考えると……」
「ほっといていいんじゃない?」
「うーん」
いや、まったくの正論だった。
「そこまで気にしてられるほど、余裕でもなかろ?」
「そりゃ、そうだけど」
「あくまで創作論に関して言うなら、放っておくのが無難だと思う。いうほどそちもわかってないのだろう?」
ちなみにこの男も創作趣味を持っている。SF研究会を買収したのはそこの部員がひとりしかいなかったということもあったのだけど、単純にこの男がばりばりの難解なSF好きであったことにも関係する。ぼくと彼とはその趣味の意気投合から親密度を深めたのであったが、彼の抱え込んでいる創作は、その趣味に反して、なんとも名状しがたい古代ギリシャの哲学者たちについてだったというのは、まるっきりの余談である。
「でも気がかりだなあ」
「ふむ」
「なんていうかさ、資料とかっていうけど、読み方っていうのがあるでしょ? その、なんていうか、とりあえず概略を知るために読むのと、ピンポイントで深める読み方と、もっといろいろあるけど」
「わかるぞ」
「彼女に関してはさ、いきなり『中世ヨーロッパについて知りたいです』じゃん。中世と言ったってすごく広いから、どこがどういう風なのか、わからないし、おまけにファンタジーだって言うから、つかみどころがないんだよね。それで書けるのかな? おまえだって、話したら面白いくせに、文章にするのに苦労しているじゃん?」
余談のつづきだが、彼の創作物のタイトルは『指定哲学暴力団』という仮題がついている。ソクラテスを主人公にした誇張表現豊かな歴史小説らしいが、書き出しやらなにやらで悩みつつ、ちっとも進んでいないらしい。まあ、がんばれ、と思う。
「まあな」上地はいたってたんぱくに反応する。
「だから、なんつうか、気になるんだ。そいつがどんな物語を書くのか」
上地は黙っていた。やがてどこからともなくコーヒーを持ってくると、一息に呑んで、「まあ、待つしかないわな」と言った。彼にしては至極まっとうなことばだった。




