4.疲れていたので覚えていません
和美とハナは引き続き出張のときに時間を作って会い、メールをマメに交わし遠距離ながら穏やかな関係を積み重ねて行った。
会う度に和美は―――自分が如何にハナに飢えているかという事を意識せずにはいられない。自分にはハナが必要だと実感する毎に自然とある妄想が湧いて来る。
ハナと結婚したら……もし、一緒に暮らせたら。
清美とハナの娘の晶と4人で同じ家に帰り食卓を囲む……そんな幸せな妄想が、シャボン玉のように浮かんでは消える。我に還ると自分がニヤついているのに気付き、1人で赤くなってしまう程の体たらくだ。
現実はといえば、東京と札幌の距離は直線で831キロメートル、飛行機とJRを使うと3時間弱の距離で―――和美とハナはそれぞれの生活を営んでいる。
仕事は相変わらずハードで、ゆっくりしている時間は殆ど無い。だから今の和美とハナの距離は、互いの仕事や家庭を煩わせない適当な距離で在る筈だった。それなのに和美は―――自分の中に満たされない想いが膨れ上がって行くのを感じていた。
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和美がハナと付き合って暫く後、徐々に母親が体調を崩すようになった。脚の調子も思わしくないらしい。慣れない都会暮らしに家族3人分の家事―――そして運動神経に恵まれた清美が持て余す体力を発散するため、びっちり組み込まれた習い事も負担になった。
サッカー少年団、水泳、ボルダリングと体育会系の習い事を平日の放課後にびっちりと入れていた。土日は練習試合や公式の大会で埋まってしまう。それに比例して洗い物が大量に増え、試合の手伝いに駆り出される事もあり―――結局無理が祟って持病が悪化し、母親がとうとう入院する事になってしまった。
悪化した数値を戻すための短期入院ではあるが、和美にのしかかった家事の負担は相当のものだった。家事サービスを利用しようかとも思ったが、なかなか自分達の不在時に他人を自宅に招き入れると言う事は勇気が必要だ。入院自体は2週間と短期間らしい。そう自分を励まし、自分1人で何とか対応しようと決めた。
エリカが亡くなった当初の作業を思い出し対応するが―――母親が使い易いように配置転換したキッチンや備品棚の捜索は、時に難航を極めた。
諦めて食事はレトルトか惣菜を利用し、夕食は和美にお金を渡して出前を取るかコンビニを活用するよう言い含め、シャツは昼休みに駅近のクリーニング店を利用した。
一度修羅場を潜っているお陰で、知恵も付いた。随分作業を簡素化できるようになっていたが―――深夜に玄関を開ければ、泥のついたシューズが脱ぎ散らかされ、部屋の中にはジャージが殺人現場よろしく人型のまま放置されている。菓子パンの袋がプラスチック用のごみ箱では無く、燃えるごみのコーナーに大量に突っ込まれているのを見ると……げんなりした。
数日でマンション内の空気が澱み始めた。
仕事と家庭の両立に腐心するストレスから混乱し始めた家の惨状に、温和な和美も苛立ちを隠せなくなった。
土日にする予定だった仕事を返上して、清美に練習試合を欠席させ、服の畳み方を指南し、泥のついた靴を放置せずきちんと整頓する事、ごみを分別する事などを徹底的に覚え込ませた。
入院した母親は日々の家事や雑事に精一杯で、清美に身の回りの世話や家事を教えるという事まで手が回す事が出来なかったようだ。そもそも和美ですら専業主婦の母親に家事を習った事が無い。和美の両親は男の子が家事をする世の中になるなんて、想像もしていなかったようだ。
そう言えばエリカは……小さな清美が興味を示したタイミングで家事を手伝わせていた。清美はすっかり忘れてしまったようだが―――エリカが生きていたら今頃、清美も家庭の立派な戦力になっていかもしれない。自分が仕事人間でいられるように、エリカが家庭の仕事を一手に引き受けてくれていた事や、清美が生きていくために大事な事を身に着けさせようと気を配ってくれていた事に―――今更ながら気が付いて切なくなった。
しかし、もうエリカはいないのだ。
和美は、清美に厳しく接する事に決めた。
渡したお金を管理できるよう、こづかい帳を渡して定期的にチェックする事にした。モノをきちんと角を揃えて置くように、トイレや洗面所を使った後はゴミが落ちていないかチェックし簡単な掃除をするよう厳命した。蛇口はきちんと最後まで締め、使ったものは元の場所に戻すよう―――何度も口うるさく指導した。
そうして清美に気を配るようになると、自分の身の回りの事が疎かになってくる。
なんとか予定していた2週間を生き延びた。
しかし母親の入院が伸びる事になると医師から告げられた時―――張り詰めていた和美の肩に乗った疲れが倍増したように感じた。もう少しで肩の荷が降ろせると思っていた所でそれが不意になるのは……相当こたえるものだと和美は思い知った。
そして職場ではポーカーフェイスを貫いていた和美のデフォルトの笑顔も、綻びが隠せなくなってきた。
そんな時タイミングが悪い事に―――和美が以前設計の手伝いに駆り出された駅前再開発が竣工を迎え、設計部で打ち上げを行う事になった。
母親の体調が崩れ始めてからずっと部の飲み会を欠席していた和美だが、自分が主役の1人であると言われ断り切れずに参加した。清美は小学3年生だったが1日くらいは1人で留守番できる程度に成長していたので、ピザを頼める金額を預けて家を出た。
一次会で帰ろうと決めているが、長引いた時のため10時には寝るように言い含める。最近鬼気迫る様子で息子を指導するようになった和美の指示は、守られるだろう……。
和美はもの凄く疲れていた。
アルコールをまともに摂取するのは久し振りで、だから酒精が彼の脳を侵すのはあっという間の事だった。
「……さん、森さん?」
「ん……」
遠くから自分を呼ぶ声がして、和美は身じろぎした。硬いテーブルの感触に気付いて目を擦ると、そこは見覚えのあるバーだった。
「森さん」
自分を呼ぶ声の主は設計部の部下、平井萌香だった。
ちなみに日丹設計では、基本的にプロジェクトごと横断的にチームを組んで仕事をするため、部下と言っても同じ部署に所属しているというだけだ。そしてこれまで、和美と萌香が直接一緒に作業する機会は無かった。
和美は記憶を手繰り寄せようと努力した。
打ち上げの後帰ろうと思って……無意識に行き付けのバーに辿り着いてしまったのか?歩いている時誰かが傍にいた……という事はかろうじてボンヤリと覚えているのだが……。
「あれ?平井さんどうして……」
平井の他に職場の人間がいないか、キョロキョロとその背後に視線を巡らす。
「大丈夫ですか?ここ素敵なバーですね。連れて来ていただいて……有難うございます」
実際は酔っ払ってボンヤリしていた和美に萌香が勝手にくっ付いて来たのだが、微妙にニュアンスをすり替えた。
和美は普段ここに女性を連れて来ない。エリカとハナだけが例外だ。それなのに自分が萌香を誘ったかのように言われて戸惑った。
和美は若い女性が苦手だ。傷つきやすく本音で遣り取りができないので―――気を使って疲れてしまう。それに自分の大事な存在であるハナに、どういうわけか敵愾心を剥き出しにして突っかかる萌香について和美はあまり良い印象を抱いていなかった。
普段他人に対して好悪の感情を滅多に示さない和美だが、酔ってつい不快感を表してしまうならともかくわざわざそんな相手をこのバーに連れて来るなど―――自分自身の行動に驚いてしまう。
萌香について他に多少気になる所があるとすれば……ハナが『萌香は和美に気がある』と指摘していた事くらいだろうか。
しかしそれについてはハナの誤解だろうと和美は楽観視しており、それほど気にしてはいなかった。学歴を誇っているところがある萌香だから、大学さえ出ていないハナが周囲に信頼され活躍している様子を見て嫉妬心を抱いているのだろう―――その程度の気持ちのすれ違いだと、和美は簡単に彼女の態度をそう結論付けていた。
実際その推測も当たってはいるのだが、萌香が和美に気があるのも事実だった。
だからこそ酩酊している様子の和美に、萌香は強引に付いて来たのだ。しかし鈍い和美にはその意図は通じない。
萌香は和美と親しいハナが目障りだったが、プロジェクト立ち上げの3週間以降月に1度打合せに本社に現れる程度の存在を監視対象から外していた。
元々萌香はハナを敵とは認識していない。ただ昔の同僚として親し気に和美に付き纏う三十路のシングルマザーが目触りだっただけだ。
だから萌香は、和美とハナが付き合っているなどとは夢にも思っていない。
親しげな様子さえ目に入らなければ、ハナを色んな意味で侮っている萌香にとって彼女は本来敵候補ですら無かった。
現在の萌香は、設計部内の他の女性を敵と見なして牽制し先んじようと躍起になっていた。和美と同じプロジェクトに参加している自分より3年先輩の地味な設計担当者が、彼とよく一緒に残業しているのが癇に障っていた。
実際その女性は誠実な和美を憎からず思っていたが―――仕事を優先して特に女性としてアプローチをしている訳では無かった。
萌香はプライドが高い為、厳しい仕事の現実に嫌気が差していた。もっと自分は出来る筈だと思っていたのに、言われた仕事も上手くこなせず叱られて―――焦っていた。いつしか和美と結婚して寿退社する自分を思い描き、職場から円満に去る事を夢見るようになった。だから余計に仕事で認めらえている3年先輩の彼女が、和美と議論しているのを見て嫉妬心を募らせ、彼女の悪い噂をばら撒いたり容姿を貶めるような嫌味を言って憂さを晴らしていた。しかし決して―――和美の目の前でそのような行動を取る愚行は侵さなかった。
和美が久しぶりに飲み会に参加すると聞いて、彼女はやる気を振るいたたせていた。一次会で席は離れてしまったが、遠くからジッと和美の様子を観察していた。解散後そっと後から近づいて2人きりになる機会を得たのは―――彼女にとってラッキーだった。
ここが勝負所だと、萌香は気合を入れて和美を落とそうと意気込んだ。
「最近、お疲れですね。失礼ですがこんなに酔っ払った森さん、初めて見ました」
自信のある角度を保ってクスリと笑って見上げると、和美は照れたように頭を掻いた。
「いや、恥ずかしいな」
和美は手元に頼んだ覚えのないアルコール度数の高いカクテルがあるのに気が付いて、首を傾げた。ボンヤリしている間に萌香が頼んだものだ。萌香が一端トイレに立った後、和美は眠ってしまい―――その間に給仕されたのだった。
(これ以上飲むと、帰れなくなりそうだ)
せめてチェイサーが必要だろうと、和美は顔を上げた。
「マスター、水」
馴染みのマスターに声を掛けると、彼は心得たように頷いた。
「チョコレートが二日酔いに効くよ」
「じゃ、それも」
萌香は冷静な和美の処置に内心舌打ちしたが、気を取り直して最近の和美の様子について尋ねる事にした。上手く行かない仕事に嫌気が差して最近は和美の動向ばかり伺っていたから―――彼が最近疲れたように溜息を吐く機会が多くなった事に彼女は気が付いていた。
「本当に、お疲れですよね……何かありました?もしかして息子さんに何かあったとか……」
「いや母がね、体調を崩して入院したんだ。それで家の中がバタバタしちゃってね。今日も子供が1人で留守番しているから早く帰ろうと思っていたんだけど……」
「そうなんですか!大変ですね……」
萌香は熱心に同情を込めて頷いた。
と言っても和美に「早く帰れ」とは勧めたりしない。せっかくのチャンスを不意にするつもりは無かった。
ハナであれば一次会終了時点でタクシーに放り込んで強制的に家に帰した所だろうが……。
和美はいつもと違いしおらしい様子で彼を気遣う萌香を、不思議な心持ちで眺めた。自分中心で空気の読めない新人だと思っていたが、意外と人に同情できる部分もあるのだな、と。
「最近お疲れみたいで心配していたんです。そういう事情があったんですね……森さん真面目過ぎますよ……!1人で抱えないで周りに頼っちゃえば良いのに。私で良かったら、何かお手伝いできないですか……?」
「ハハハ……ありがとう。気持ちだけでも、十分嬉しいよ」
(平井さんが急ぎじゃない質問を作業中や打合せ中にしないでくれたら、仕事の負担がかなり減るんだけどな)
と思ったが流石に口に出せない和美だった。
亡き父親に『女性に優しく』と薫陶を受けて育ったので、女性に対して厳しい態度をとれない体質なのだ。
「森さんは―――もっと人に頼るべきです!」
突然きっぱりと言い切った萌香を見ると、彼女は何故かうっすらと涙ぐんでいた。
「いや、あんまり他人に迷惑掛けるのも……」
萌香の剣幕に驚いて和美は思わず怯んでしまった。
「迷惑なんて思いません!だいたい皆助け合って生きるが当たり前なんです。自分で手に余る事は相手にお願いして、その代わりに相手が困ったときに助ければ良いんです。私はそれが、人として普通の事だと思います……!」
熱弁を振るう萌香は、頬を紅潮させて和美の瞳を熱心に見つめた。
「だから森さんは早く新しい奥さんを見つけて、助けて貰ったら良いと思います!1人で抱え込んで頑張らないで―――支えてくれる人を探すべきです。新しい家族を作る事が、息子さんとお義母さんのためにもなると思います……!」
「……」
和美は少し思案してから、言葉のトーンを落とした。
「それは……前の妻を裏切る事にならないかな?」
静かな声で和美が問えば、萌香は即座に否定した。
「なりません!」
力強い反論に和美はハッと息を呑んで萌香を見た。
それはまるで初めて萌香の顔を見た、というような驚きの籠った表情だった。
「前の奥様を大事にしながら幸せになる事は絶対、可能です。―――奥様は……和美さんと息子さんが幸せになる事を嫌がる人でしたか……?」
「いや、妻は……そんな人間じゃない」
萌香の問いに和美は目を逸らして唇を噛んだ。
2人の間に暫し沈黙が訪れる。
和美は改めて萌香の顔に目を戻した。
彼は初めて、萌香に感心していた。そしてその感動のままに萌香の手を取った。
「ありがとう」
「森さん……?」
「君の言う通りだ。俺には新しい家族が必要だ。……本当は迷っていたんだ。俺が新しい奥さんを貰ったら前の妻に悪いんじゃないかって―――でも君に叱って貰って気付いたよ。確かに彼女は俺や息子の幸せを喜ばない人間じゃ無い」
「わかってくれましたか?」
「ああ、ありがとう。君は本当に素晴らしい人だ。……ハハ、ひと回りも年下の女の子に叱られて気付くなんて―――俺は恥ずかしいな」
「いいえ!森さんは素敵です……!」
強い口調で萌香は訴えた。
そして感極まって、思わず目を閉じた。
カサリと音がして、萌香は(来る……!)と覚悟した。
すると期待に染まる頬を冷気が撫でた。
「平井さん!本当にありがとう!あ、タクシー代も置いておくから使ってね、じゃ!」
カランコローン。
扉のベルが音を立てて、和美の姿が消えた。
テーブルを見るとバーの会計は済ませた後らしく、タクシー代と思しき紙幣が乗せてあった。
「……きっと、物凄い照れ屋なのね。森さんって……」
萌香は戸惑いながらも―――勝利を確信して頬を染めた。
きっと私に遠慮したのだわ、と1人納得して頷く。
(ひと回り下だからって、慎重になり過ぎだわ!もっと強引に行動してくれたほうが嬉しいのに……)
と、心の中で彼女は悶えたのだった。
尻込みしていた和美の背中を、敵の方へエイヤッと自ら押し出してしまったのだと―――この時の彼女は全く気付いていなかった。
2016.5.17 誤字修正(きなこ様へ感謝)