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2.『田舎のババア』と言われました

父子家庭となった後、和美は海外プロジェクトから手を引かせて貰うよう上司に願い出て主に国内の案件を担当するようになった。

そして今回新たなプロジェクトのメンバーに任命される事となり、北海道支社に所属するハナもそこに加わる事となった。

著名な建築家の設計による歴史的価値のある銀行を、美術館として再利用する計画が浮上しその建築設計競技コンペティションに日丹設計も参加する事になったのだ。取り敢えず最初の3週間、ハナは東京に派遣されプロジェクトの滑り出しに尽力する予定だ。ある程度形ができれば後は主に地元に支社で作業を行う事になる。IT化が進み、日丹設計では近年遠距離の人材を登用する事が容易になった。


ハナは以前、札幌市内中心部にある官公庁施設の再生利用工事に携わっており、竣工後その施設は建築雑誌に何度か取り上げられ好意的な評価を受けた。その経験を買われての徴用だった。

官公庁が所有していた古い文書館を、道内有数の老舗菓子屋が落札し小さな演奏会を開けるサロンを併設した店舗やレストランに生まれ変わらせたのだ。古い趣のあるタイル貼りのコンクリート造はその雰囲気を残したまま使い勝手よく改良され、今ではネットランキングで上位の観光スポットとして観光客で溢れかえっている。

経験者の言葉は貴重だ。特に表に出せない失敗談やそのフォローの経過など、更地に建てる新築建築物と違って躓く要素がゴロゴロしている最近流行りの『リ・ユース(再生)工事』は、現場を監理する建築士にとって頭の痛くなる厄介な仕事だった。


しかし和美は今回怖いような楽しみなようなソワソワした気分でプロジェクトの初顔合わせに望んだ。ハナと3週間も一緒に居られると思うと仕事だというのに気持ちが沸き立つのを止められ無かった。




妻を失ってからめっきり口数の少なくなった和美が、最近何だか機嫌が良いようだ。そして毎日以前勤めていた支社の元同僚の女性と連れ立って、昼食や夕食に出掛けて行く。

それを目にした職場の若い女性がヒソヒソと噂話をし始めるのに、時間はそう掛からなかった。


和美本人は気付いていなかったが、職場には彼の後妻の座を夢見る女性がかなりの人数存在した。コブ付きとは言え国際的に有名な建築家・鷹寛悟の研究室出身で数々の賞を受賞しており、実力も折り紙付きだ。出世も間違い無い。長身の美男で働き盛りの30代。何より誰にでも平等に優しく丁寧に接する和美は、激務で疲れた技術系の女性から最終目標が寿退社の事務員の新入社員まで―――女性達の心を無自覚に手折り捲っていたのだ。

けれども大抵の女性は、仕事と子育てで多忙な優しい和美の邪魔にならないよう過激なアプローチを控えて高嶺の花をそっと見守っていた。


しかし新入社員の萌香は違った。本気で和美にアピールしていた。

研究室は違うものの彼女は和美のT大の後輩にあたり、高学歴な女性にしてはかえって珍しいプライドが高いタイプだった。容姿は抜群に美しいものの、キツイ物言いで同期の男性陣に敬遠されていた。

和美は父親の教えにより女性に優しくする事が初期設定デフォルトとなっているため、誰にでも同じように接している。だから他の男性が引いてしまった結果、萌香に優しいのは和美だけという状態に陥ってしまっていた。

しかし自分の恋心を自覚する時でさえ毎回1年から2年かかるというほど恋愛に疎い和美は、萌香の気持ちに全く気が付いていなかった。懐かれているという自覚はあったが出身校が同じだから親しみを持っているのだろう……と言う程度の認識だった。子持ちヤモメのオジサンは、ひと回りも年の離れた若い娘さんの恋愛対象になり得ない―――と固く信じ切っていたのだ。


ちなみにエリカに迫られていた時も和美は暫く気付かなかったため、彼と長年付き合いのある同僚達には、その天才的な鈍さは周知の事実である。だから、30代前後の中堅の職員にとっては萌香のような存在は珍しいモノでは無く、その内また空回りしている事に空しさを覚えて諦めるだろうと、むしろ同情の眼で見られていた。


そんな負けっぱなしの萌香の目の前で、突然北の端っこの支社からやって来たハナが和美と四六時中一緒に過ごしているのである。


勿論、全然、全く面白くない。


聞けば地方都市の高等専門学校卒という聞いた事も無い学歴で、偶々運良く和美と同期入社となり友人関係にあると言う。しかも子持ち。萌香にしてみれば本来であれば自分の敵では無い。ハナの容姿は目立つ美貌を持つ萌香に比べれば十人並みの地味なものに見えたし、何より自分は若く同じ大学出身というアドバンテージもある。だから当然自分の方が有利だと、そう考えていた。それなのに。


萌香は最近大層ご立腹だった。


女子トイレで同期の友人に腹立ち紛れにハナの悪口を言い並べ、仕上げに「あのババア、早く田舎に帰れ」と締めくくった。友人が際どい台詞に思わず笑ったので、すっと溜飲を下げてその場を後にした。


彼女達が去った後暫くして個室の扉が開き―――小柄な女性が顔を出した。




萌香が『田舎のババア』と吐き捨てた当人―――ハナである。

彼女は新人達が立ち去った扉を見て、ニヤリと笑った。




(かーわいいねえ、必死になっちゃって。しかし『ババア』呼ばわりした分はきっちり遣り返させて貰おうかな?)







ハナは今まで自分から和美を誘った事は無かった。完全アウェイの東京本社で、おそらく女性達のアイドル的存在になっているハズの和美を独占してみせるような行動は慎みたかった。

北海道支社に居る時も和美は天然タラシ振りを発揮して、無自覚に周囲の女性を落して廻っていた。ハナはそんな和美を友人として残念な気持ちで見守っていた。誰が鈍感な和美を落すのかと楽しみにしていたくらいだ。しかし争奪戦に決着が着かず和美が東京に栄転になった時、かなりの数の女性職員が涙したものだ。

そんな水面下の争いに仕事人間の鈍い和美は全く気が付いていなかった。


だからハナは、職場ではいつもより素っ気なくビジネスライクに接していた。

そんな彼女の行動に和美が物足りなさを覚えているなどと、露ほども思わずに。


ただエリカを失い幼い子供を抱えて右往左往している和美を友人として突き放す事もできず、昼食や夕食に誘われれば付いて行った。それが今や毎日の恒例行事になってしまってしまったのは彼女の計算外であったが、まあ長くても3週間だと割り切っていた。しかし特に職場や皆の目のあるところで体に触れたり、親し気に友人としての軽口をきいたりはしないよう心掛けていた。




萌香が和美に気がある事にハナにはすぐ気が付いた。親し気に特に用事も無いのに仕事の話の最中に割って入って来たり、不自然に和美の体に触れたりしていたからだ。しかし和美がそれに気付いていないのも、分かっていた。


ハナは何度かエリカに会った事があり和美が彼女にデレデレしている様子を現実に目にしていたから、和美が彼女を見る目に恋愛感情が籠っていない事は見て分かる。

ただ女性に対する気遣いや接する丁寧さのレベルが一般的な日本男子よりかなり高いので―――和美が自分に気があるのかと浮かれた途端、天然な彼にスルーされ愕然とする女性達を目の当たりにして「気の毒だな」と同情していたくらいだ。


しかし萌香は寝た子をわざわざ起こしてしまった。


『ババア』呼ばわりされて黙っているハナでは無い。伊達に修羅場はくぐっていないのである。彼女の青さに嗜虐心が湧いてハナはほくそ笑んだ。何ちょっと遣り返して溜飲を下げるだけだ。腹立ちはその場で解消してしまえば禍根にならずに霧散する。自分の中に恨みが残る方が数倍体に悪いと、三十路を過ぎたハナは承知していた。







職場に戻ると和美に話し掛ける為に、萌香が自分のデスクから離れたプロジェクトチームの席にわざわざ出向いて来ている所だった。

頬を染めて話す様は、随分可愛らしい。


ハナは時計を確認すると、ニヤリと嗤ってそこへ割り込んだ。


「和美!お昼行こう」


普段は職場で絶対使わない名前呼びで、萌香の反対側から和美の肩に手を掛けた。和美はハナの態度に少し違和感を覚えたが、特に慌てることなくそちらへ目を向けた。和美の視線が外れた先で、萌香が鬼の形相になる。


「もう、そんな時間か」

「美味しいトコ、連れてってよ!『田舎もん』だから、都会に不案内でさ~」


和美は首を傾げた。


「ハナが『田舎もん』だったら、僕の実家なんか『ド田舎』じゃないか」


ハナの自宅は、札幌市の中心部にあった。和美の実家は郊外の閑静な住宅地にある。

もちろん―――地元を田舎呼ばわりされた萌香への腹いせである。


「いやー、東京の人からしたら私達の地元って田舎だよね、ねぇ?平井さん」


萌香を見ると、和美の視線も一緒に戻る。

すると鬼の形相が一転して引き攣った笑顔に変わった。


「そ、そんな事無いですよー」

「まー、気を使ってくれるのね。私みたいな『オバサン』にも優しいね!平井さんは。ねぇ?」


ハナがちらりと和美を見上げると、和美が吃驚したように目を瞠った。


「ハナが『オバサン』なワケ無いじゃないか。全然変わってないのに。それにハナが『オバサン』だったら、年上の俺は『オジサン』じゃないか」


そこで和美はチラリと萌香を見た。

彼の視線が萌香に向くと、反射的に彼女の頬はうっすらと染まった。


「……って、平井さんみたいな若い子に比べたら確かに俺は『オジサン』だな。ハハハ」


俳優のような色気のある笑顔で、和美が笑った。

和美は職場で滅多に声を出して笑ったりしないので、今度は萌香が目を丸くした。


「平井さんもこんな『オジサン』の相手、大変だよねー」


ハナが言うと、萌香は慌てて「そんな……!」と首を振った。

和美も笑顔で軽口を叩いた。


「平井さん、いつもオジサンの相手なんかさせてごめんね」


萌香は更に慌てて首を振る。冗談らしきものを和美が言うのを初めて目にしたので、上手くフォローの言葉を口にできずにアタフタしてしまった。

ハナは内心『アラアラ、可愛いこと』と萌香の反応を面白がっていたが、お腹も空いて来たので、このあたりで切り上げる事にした。


「じゃー『オジサン』は『オバサン』に付き合ってくれる?お腹ペコペコだわー。あ、胃もたれするから油モノはパスね。平井さん、じゃあ『オジサン』借りるわね。『ババア』の分際で―――ごめんね?」


ホホホ……と笑って和美の腕に手を掛けて立ち去るハナの背中を、萌香が茫然と見送った。


(和美と身長差があり過ぎて、ホントは腕組むと子供と大人みたいになるから嫌なんだよなー)


と心の中で愚痴りつつ、とりあえず最後まできっちり『嫌味なババア』を演じきったハナであった。







萌香の視線を外れたところまで来ると、ハナはパッと和美の腕から手を離した。

和美が名残惜しそうにハナを見て、首を傾げた。


「ハナ……今日なんかおかしく無いか?」


そういえばこちらの職場で下の名前を呼ばれたのは初めてだと、和美は気付いた。それにハナから和美に触れてくる事は滅多に無い。特に職場では。

ハナは歩きながら、ペロリと舌を出した。


「だって、あのにトイレで『ババア』呼ばわりされたからさ」

「え……?」


和美にしては晴天の霹靂である。普段上品な物言いのお嬢様だと思っていた、部下の裏の顔を暴露されたからだ。萌香は取り分け和美の前では猫を被っていたので、俄かには信じ難く思われた。だがハナがこんなことで嘘を言う人間では無いと知っている。


「『田舎に帰れ』って言うから、ちょっと腹いせに意地悪しちゃった」


へへへ……と笑うハナに、和美は呆れたように溜息を吐いた。


「大人げない……」

「下手に大人ぶって、恨みを残す方が気持ち悪いでしょ。これで手打ちにしてやるって『優しさ』だよ。売られた喧嘩は買わないと。舐められっぱなしじゃ、後に響くからね」




むしろ得意気に言うハナが心配になって、おススメの洋食屋に席を確保してから和美はハナの顔を覗き込んだ。


「あんまり思い切った事しないでくれ。揉めて困るのはハナだろ?―――今後喧嘩を売られたら、上役の俺に先に言ってくれよ」


それこそ、ハナが一番やりたく無い事だった。


「和美は一緒に長く働く相手と揉める必要無いよ。それに『オバサン』が若い子に何かされて負けると思う?」

「―――ハナ」


和美が声に怒気を込めると、ハナは肩を竦めた。


「はいはい、気を付けます……平井さん和美に気があるから、和美に怒られた方が凹んで大変な事になると思うけど。あ、和美が平井さん気に入っているんなら、誤解解いとくよ。いっつも私達2人でご飯食べているからヤキモチ焼いちゃったらしいよ―――私は子供の事相談に乗っているだけって伝えて、和美が彼女をランチに誘えばすぐ機嫌直ると思うよ」


ハナがむしろ楽し気にそんな事を言うものだから、和美は眉間に皺を寄せた。


「ハナ」


今度こそ和美の声にヒヤリとしたモノを感じて―――ハナは言葉を引っ込めた。

同僚だった遙か昔、暴走気味のハナを諌めるのは、いつも滅多に怒らない和美が稀に発する底冷えするような声音だった。


「どうせ、あと1週間しかいないのに」


往生際悪く呟いたハナを和美が鋭い目で見た。今度こそ本当にハナは口を噤んだ。

しかし諦めて食事に専念し始めた彼女は、和美の瞳に寂しそうな色が浮かんでいるのに、気が付かなかった。







** ** **







残り1週間は瞬く間に過ぎ、最終日の夜は各支社に戻る職員の送別会が行われる事になった。今後はテレビ会議やメールでの遣り取りをメインとし、時折東京で担当部門に関わる短期の打合せをする事になる。




萌香は満面の笑みで、まだ午前中だというのにハナに別れの挨拶をしに現れた。よほどハナが居なくなるのが嬉しいらしい。

しかしハナはご機嫌な萌香を、生暖かい目で見守った。和美に近づく者を片っ端から威嚇して回る萌香より、真面目に自分の仕事に取り組む同じ設計部の麹町さんとか、誰にでも分け隔てなく優しい受付のアイドル、片山さんの方がおそらく和美の好みだろうな……と思ったからだ。


けれども萌香のハングリー精神は尊敬に値するかもしれない。ハナは『きっといつか貴女は山頂に到達する事ができますよ、何の山かは判りませんが』と、心の中で合掌した。個性的なキャラクターとしての萌香を、ハナはけっこう気に入っていた。そんな事を彼女に言えばきっとプライドの塊の彼女は卒倒するかもしれないが。







送別会が一本締めで締められ、ハナは居酒屋の外に出た。

二次会への参加は遠慮した。ゆっくり眠って疲れを取りたいと思ったからだ。本社のプロジェクトに参加したからと言って、支社の進行中の仕事が免除される訳では無い。それに普段地方に住む母親に留守を預かって貰ったとはいえ、娘も寂しがっているだろう……空港で彼女の好きなスイーツを買い込み、欲しい本も沢山買ってあげようと算段する。それから嫌がるかもしれないが可愛い服も買ってあげたい。あの子の事だから服を買うお金があったら『本を買って欲しい』と言うかもしれないけれど。


そんな事をつらつら考えながら歩き出すハナの背を、聞き慣れた足音が追って来た。


「ハナ!送るよ」


ハナは和美も早く帰るのだろうと思い、頷いた。


しかし和美はまだ帰るつもりは無かった。ホテルに帰る途中の道で「ちょっと、寄って行こう。今までのお礼に奢らせて」と言って強引にハナを行き付けのバーに連れて行った。『お礼』と言われれば断り辛い。ハナは諦めて付き合う事にした。



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