1.魔法使いの相棒/前篇
──あれから、もうどれほどの時が過ぎたのか。永遠に日の差さない暗黒の中、自由を奪われ、死ぬこともできずにただ存在している。
最初の数年は、それでも彼を信じていたように思う。いつかわたしを自由にしてくれる。いつかわたしを見てくれる。だって、わたしは彼のためにこの身を差し出したのだから、彼はきっとふさわしい代価を与えてくれるはず。
次に沸き起こったのは、怒りだった。なぜ彼はわたしのところへ来ない。なぜわたしに代価を差し出さない。わたしは彼のために犠牲を払ったというのに、なぜだ。
そして怒りも消え、自分への憐れみも消え、諦めの感情すらなくなり、残ったのはただただ生き続ける虚無だけだった。そのうち考えることにも飽いて、ただぼんやりとしていると、自分の意識すら遠いものと感じるようになった。昔ははっきり覚えていたこともだんだんと頭から抜け落ちていき、そのうち呼吸の仕方すら忘れてしまった。
路傍の石ころのように、ただそこに在るだけの何か。それが今のわたしだった。
長い年月が過ぎ、永遠にこの虚無が続く今、ぎぎ、と不快な音とともに軋みながら扉が開いて、わたしの意識が外へと向いた。
ゆらゆらと揺らめく灯りがあたりを照らし出す。わたしは身じろぎもせず床に転がったまま、世界には色があったことを思い出していた。ずっと淀んで動かないはずの空気が動き、そしてわたし以外の誰かの気配というものを思い出していた。
* * *
調べつくされたはずのこの塔に、実は更なる地下へと続く扉が隠されていたと知れたのは、偶然だった。
……隠されていたというよりは、埋め戻されていたというべきだったかもしれない。
長い年月による浸食のためか、度重なる魔法の衝撃によるものか、俺たちの目の前でいきなり壁だと思われていた場所が崩れ、その奥へと続く階段が現れたのだ。
かつてこの塔の主だったと言われる魔法使いの遺産を求めていた俺は、一も二もなくその階段の先を探索することを仲間に提案した。仲間たちも全員二つ返事で同意し、地下へと進むことにした。
その俺は今、まさに手近な部屋の扉をこじ開け飛び込み、再び固く扉を閉めたところだった。慌てて扉に封を施し、ようやく落ち着いて息を吐くことができたところだ。
「何なんだ、あの化け物は」
発端は、魔剣で殺されたと思しき騎士の亡骸だった。亡骸といってもとうの昔に中身は風化して、赤錆の浮いた鎧だけが残っているだけのものだ。いったいどれほど前から残されていたのか、遠い年月を思わせるその有様の中で、亡骸に刺さったまま残された魔剣だけが刀身には錆ひとつ曇りひとつなく、ほのかな魔法の気配をまとっていた。
仲間の剣士がその魔剣に目を輝かせる。探知魔法で早く探れと急すので、俺は手早く魔法の詠唱をした。剣は予想通りしっかりとした強化魔法によりいくつかの魔法が付与されていて、かなり良いものであることがわかった。騎士の亡骸からは何の力も感じられず、罠がある様子もなく、ならば魔剣を取っても不都合はないだろうと判断できた。
だが、嬉々として剣士が魔剣を引き抜くと、いきなりその場に底知れない得体の知れない嫌な気配が立ち上った、
魔法に聡い俺は、そのただならぬ気配に思わず飛び退ったのだが、魔力をあまり持っていなかった他の仲間はそれに気づくのに遅れてしまった。
……ゆらりと、しかしその重さを感じさせず、騎士の亡骸だと思っていた何か……亡霊騎士とでも呼ぶべきだろうか、そいつが立ち上がり、剣士の首へと手を伸ばしたのだ。
いや、手を伸ばしたというよりは、首を貫いたというべきか。
剣士の身体が、いきなり力を失ってぱたりと倒れた。
「おい、下がれ!」
俺はなんとか逃げる時間を稼がなければと、精霊魔法の詠唱を始めた。しかし、仲間たちが動かない。よく見れば、皆、亡霊騎士の放つ禍々しい気配にすっかり呑み込まれ、身体の自由すら覚束ないようだった。
──力ある魔物の中には、その強力な気配だけで人間の脆弱な精神を侵し、自由を奪う者もいる。
俺はこの亡霊騎士が、とても一筋縄でいかない力を持った魔物であると理解した。
精霊魔法が完成し、亡霊騎士に火球を飛ばしたが、たいして効果があったようには思えない。仲間たちも、皆、亡霊騎士の気配に呑まれたまま、ただ立ち尽くしているだけである。俺は舌打ちをして、どこか身を隠して時間を稼げる場所はないかと周囲に目をやり、すぐ近い場所にあった扉を開けて飛び込んだ。
……こっちだと声を上げ、少しだけ仲間を待ったが、やはり誰も追っては来なかった。待ちたいのは山々だが待っていたら俺もやられてしまう、そう判断し、扉を閉じて即、魔法で封をしたのだった。
とっさに飛び込んだ部屋は静まり返っていて、黴臭く埃っぽい臭いの空気が淀んでいた。しばらく様子を伺ったが生き物も動くものの気配もなく、何もないのなら、ここは安全だろうと考えた。
……部屋の外にアレがいるとなると、どれだけ籠城することになるかわからない。俺は松明を魔法の灯りに変えて、持っている荷物を点検することにした。俺に転移魔法が使えれば問題なかったのだが……。
ふと、魔法の灯りが届くぎりぎりの場所で何かが動いたような気がして、手を止めた。まさか、ここにも魔物が潜んでいたのだろうか。
俺は所詮中位の魔法使いだ。盾になってくれる仲間がいるならともかく、ひとりで魔物に対峙したところでたかが知れている。ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込み、先ほど視界の端で何か動いたように見えた場所へと魔法の灯りを移動した。
灯りに照らされて目に入ったのは、かつては衣服か何かだったのではないかと思えるぼろ屑と……。
「人? いや、まさか……」
この地下へ踏み込むとき、入り口の階段を調べた仲間は、もう何年、いや何十年……下手をしたら100年以上人が立ち入った気配がないと言っていた。そんな場所でひとり生き続けられる人間など存在しない。
──ということは、こいつは魔物なのか?
ソレは、無力に転がったまま、時折ぴくりぴくりと手足を動かそうとしている人間の女のように見えた。この場所からでは顔はよく見えないが、ほっそりとした体つきに白く長い髪の女だ。
「……ぁ」
いったい何なのかを探ろうと探知魔法を詠唱していると、ソレは掠れた声をあげた。
魔法を帯びた俺の目には、ソレに強化魔法や死霊術、ほかにもいくつかの系統の魔法が複雑にからまって施されているように見えた。
……かかってる魔法の種類から、どう見ても人工的に作り出した何かにしか見えない。これほど複雑な魔法の気配をまとう魔物がいるなんて聞いたこともない。
これが、この塔の主だったという魔法使いの遺産なのか?
「お前はなんだ。言葉が話せるのか」
今すぐに使える魔法をいくつか脳裏に浮かべながら、俺はソレに問うた。
「……だ……れ」
「質問返しかよ。……俺が聞いてるんだ。お前は何だ」
得体のしれない相手に冷や汗が出る。一難去ってまた一難か。俺はいったいどこに飛び込んでしまったというのか。
だが、ソレは拘束されているのか、それともまともに動けないのか、ときおりもぞもぞと身体を揺らすだけで、転がった場所から動こうとしなかった。
「……わた、し……わ……か、らな……い」
「は? ……お前は、ここの主の魔法使いが作ったものか?」
「そ、う……わた……し、まほう、かけ……られ……」
「魔法をかけられてそうなったって言うのか?」
「そう」
少し話すうちに、ソレの言葉がだんだん滑らかになってきた。さっきからもぞもぞするだけだった身体も、だんだんしっかりと動くようになってきている。
もしかして、これはよくない状況ではなかろうか。
「わかった、では質問を変える。お前が主から命じられたことはなんだ?」
「めいじ……?」
「お前が、主である魔法使いから与えられた使命、目的、仕事……そういうものだ」
「……そんなものは、ない」
……通常、こういった人工物には明確で間違えにくい目的が与えられるはずだ。でないと、作り主まで危険にさらされることになる。
その間にもソレはとうとう起き上がり、石の床にぺたりと座り込んだ状態のままこちらへ向いた。
長い白髪はばさばさになって、整った顔の半分近くを覆ったまま、その間から何処を眺めているのかまったく掴めない、虚ろな灰紫の目が覗いている。元衣服だったボロ屑はその役目を果たしていない。そして、じゃらりという重い金属の擦れる音によく見れば、手足は壁から伸びる太い鎖に拘束されていた。
こんな状況でなければ、美しさに息を呑むくらいはしていたかもしれないが、あいにく今の俺に余裕など無かった。扉の外には亡霊騎士、目の前には得体の知れない何か……どうすれば俺は安全に外へ出られるのだろうか。
「……お前の名前はなんだ?」
この状態なら、うっかりでも真名かそのヒントになることでも漏らしてくれないだろうか。
ソレが魔法使いの被創造物であるというなら、与えられた真名があるはずだ。真名さえ判れば、俺がソレを縛ることも、理論上は可能なはず。
「名前……ない。前はあった。けど、それは違う。今は、何もない」
今度こそ、俺は絶句した。目的も与えていないうえに、名前もつけられてないというのか? ありえない。通常、魔法使いは自分の作り上げたものには即座に名を与える。たとえそれがひとふりの魔剣であってもだ。
──ソレが拘束されているのは、目的も真名もないことが理由ではないのか? ふと、そんな考えが浮かんだ。ここの主だったという魔法使いが何を考えていたのかまるで予想もつかない。
だが考えろ。ソレに目的も真名も与えられていないというなら、俺にとってチャンスだ。試してみるのは悪くない。少なくとも、今より状況が悪くなることなどないのだから。
「……お前、戦えるか?」
「戦いは、得意だったと思う」
「よし、なら、俺がお前に名前と目的をやる。だから、俺に従え」
ソレは不思議そうに視線を寄越すと、こくりと頷いた。大きく息を継ぎ、俺は魔法の詠唱を始める。そして、銘のない魔剣を前にしたときのように浮かび上がった名を頭の中で反芻し、魔力を込めて声に乗せた。
「……お前の存在と魂に刻まれる名は“カリン=アラストリオナ”。その真名において俺、魔法使いオルトヴィーン・ヴァルテンブーフの命に従い、俺の盾となって戦い、俺を護れ」