公衆電話と梅雨空と
うちの近所の公衆電話ボックスが最近取り壊された。
これも1つの時代の終わりなのだろうと、缶ビールを買って、コンビニから帰る途中にそいつを眺めて、小さく吐き捨てた。
…そう、1つの時代が確かに終わったのだ。
今日はよく雨の降る一日だった。梅雨空は最後の力を振り絞り、雨の一滴一滴を落としているのかと思うくらい、雨らしい雨だった。おそらく、セミの声に夏を感じ始めていた僕に梅雨の存在をアピールしたかったのだろう。嫌われ者の梅雨空は意外と寂しがり屋なんだと思うと、この雨模様は多少滑稽に映って見える。
そんなことを考えていたら、ふと昨日の彼女の言葉が胸を横切った。
「この先のことを考えてる?私のこと考えてる?私は…、私はね、ただ安心が欲しいだけなの。」
安心?甘えた事言うなよ、ふざけるな!感情的にそう言い放った。安心なんて手に入れられるものなら、手に入れたいと思うくらい、自分の夢を追いかけることは不透明で、はるかに険しい道なのだとこの年になってようやく分かった。「―安定した暮らし程くだらねぇものはねぇよ。ほら、あのサラリーマン見てみろよ。こんな昼間からあんなに腐った目をして。安定した奴は、みんなああなっちまうんだぜ―。」遠い昔に感じていたことは自分の青さのせいだったと今はっきり分かる。安定を求めることは決して人生の逃げ道ではない。だから、彼女の気持ちも良く分かる。ただ、自分自身、ここまでやってきて、今更あとに引けないだけだ。自分のアイデンティティなんてものにしがみつかないと、時々、自分が分からなくなってしまう。
「甘えたこと、ふざけるな、か…。」
そう呟いて、彼女は部屋から出て行った。
今朝起きると、携帯に一通のメールが届いていた。
『これ以上不安を抱いて生きていくのはもう無理みたい。今までありがとう。最後にこれだけは言わせて、私が好きだったのは夢を追いかけていたあなたで、夢にしがみついているあなたじゃないの。』
メールをゆっくり時間をかけて反芻した、しばらくして聞こえてきたのは雨音だった。気象庁の梅雨明け予想って今日じゃなかったっけ…。カーテンを開ける、街や人やいろんなものがいつものように、動き始めていた。
取り壊された電話ボックスの残骸の、その色褪せた緑。
1つの時代が終わる瞬間、そこには色褪せた何かが数多く散在して、次第に昔の面影は微塵もなくなっていく。彼女が最後に僕に伝えた言葉すら、いずれ色褪せていくのだろう。1つの時代が終わる事で始まる新しい時代…、今はそいつが輝いてくれること、そのことを願って電話ボックスは色褪せてゆくのだろう、多分、いや、きっとそうなんだ。
小さく肯いて、湿気の分だけぬるくなった缶ビールを片手に家路に向かった。