名前
「いいかげん,名前を教えてくれませんか?」
「嫌だ.」
もうすでに,何度もこのやりとりを続けている.
ライムは少女には聞こえないように,小さくため息を吐いた.
意地を張らずに,自分のことを忘れてしまった少女に名を告げればいいのだが…….
少女の「あなたは誰?」という視線を感じながら,少年は少女の手を強く握った.
ちゃんと握っていないと,離れていってしまいそうだ.
「じゃぁ,ヒントをくれませんか?」
と,いきなり少女が楽しそうに問いかけてくる.
「名前の最初の一文字を教えてくださいよ.」
「はぁ?」
金の髪の少年は,思いきり顔をしかめた.
「俺の名前は,当てものかよ.」
少年はげんなりした.
なくしてしまった記憶について,この少女はあまり真剣に悩んでいないらしい.
「お願い! それがきっかけで思い出すかもしれないじゃない!」
両手を合わせてポーズを作り,少女は少年の顔を下からのぞきこむ.
少しうるんだ淡い緑の瞳で,ほんのちょっとだけ切実な顔つきで.
こんな風にお願いをされてしまうと…….
「ラ,だ.」
簡単に折れてしまう.
「ラ?」
少女はうれしそうに聞き返した.
まさか俺がほれているのを分かって,わざとやっているのじゃないのか.
少年が少女の気持ちを疑っていると,
「ラキ,ラオ,ラッセル?」
悪気があるのか,ないのか.
少女は思いつくかぎりの名前を列挙する.
「ライネ,……ラティン,あとは何があるかなぁ.」
「サリナ,思い出す気があるのか?」
さすがに少女を問いただす声が低くなる.
「あ,あります!」
少女は真っ赤になって,手を振った.
と思うと,じぃっと少年の顔を見つめてくる.
「私は,あなたのことを……,」
ひとり言のような少女のせりふを,少年は黙って聞いた.
「あ,あの,あの,あなたにとってはどうでもいい話だけど,」
少年の視線を受けて,少女は真っ赤になってどもりだす.
「ど,どう思っていたのかなぁ,なんて…….」
……私はずっと,ライムのそばにいるからね.
私なんかで役に立てるなら,私,なんでもするよ.
ふいにつらくなって,少年は少女から顔をそらした.
好きだと言った,私も好きと言ってくれた.
「俺はサリナの同級生だ.」
「マイナーデ学院の?」
少女の問いに,少年はうなずく.
「……ということは,貴族!?」
少女の息をのむ音が聞こえた.
「ごめんなさい! じゃない,申し訳ございません,知らな,ぞんじあげなかったとはいえ,数々の無礼なふるまい,」
一気に少女はまくしたて,つないでいた手を逃げるように離す.
「俺は貴族じゃない.」
少女の言葉をさえぎって,少年は淡々と述べた.
「あ,ちがうの……?」
少年のせりふに,少女は拍子抜けしたらしい.
「なぁんだ,あせらせないでよ.」
少女は,ばしっと陽気に少年の肩をたたく.
「それじゃ,私と同じ平民なんだね.」
それどころか,なれなれしく少年の腕を抱き寄せる.
少年は自分は王子だと真実を告げようとしたが,腕に触れる柔らかい感触に口をつぐんでしまった.
何なんだ,いったい…….
もしも俺が王子じゃなかったら,こんな態度だったのか?
まるで恋人同士のように,少女は少年にべったりとくっついている.
いや,確かマイナーデ学院に入学したばかりのころは,少女はこんな風だった.
何度も抱きつかれたし,無理やりキスされたこともある.
なのに学年が上がるにつれて,少女は身分というものを意識し始めて……,
「あああああ,私ってば何を期待しているの!?」
と,いきなり少女が頭を抱えこんで叫びだした.
金の髪の少年は,ぎょっとして足をとめる.
「い,いきなりだけど,あなたは字がきれい!?」
突拍子のない少女の質問,少年には少女が何を考えているのかさっぱり分からない.
「いったい何の話だよ.」
「そ,そうよね,私,何を言っているのかしら?」
少女はごまかすように,わざとらしい笑い声を立てた.
「えっとね,えぇっとね,」
少女はあからさまに挙動不審である.
「もしもちがったら,軽く受け流してね,」
少年は,何を言い出すのかと身構える.
「私たちって,実は恋人同士だったりして……,」
そのとおりだ,サリナ.少年はその言葉をのみこんだ.
代わりに,
「試してみるか?」
「え?」
強く少女を抱き寄せて,淡い緑の瞳をじっと見つめる.
「恋人だったのかどうか.」
ほおをなでても,少女は抵抗せずにただ少年の顔を見返している.
これは,脈ありなのだろうか?
恋愛経験など今,目の前にいる少女以外にはない少年には分からない.
そっと唇を寄せると,
「ま,待って待って,私,心の準備が!?」
「それに,キ,キスなんて,そんな試すなんて,」
予想どおりの反応に,少年はぷっと吹き出して楽しそうに笑い出した.
少女が動揺すればするほど,なぜか少年の方に余裕ができる.
「嫌がっているのに,するわけないだろ?」
少女は,かぁぁっと赤くなって少年の胸を軽くたたいた.
「か,からかったわね!?」
馬鹿,俺はいつでも本気だ.
自分の本音を,少年は笑い声に隠す.
「嫌がってなんかないもん!」
さすがにそれを聞き逃すほど,少年はまぬけではなかった.
自分の失言に気づいて,少女はぶんぶんと首を振る.
「ち,ちがう,今のはなし! 忘れて!」
「……無理.」
顔がゆるんできそうで,少年はさっとそっぽ向く.
「ごめんなさい,」
少女の神妙な声が,少年の背を打った.
「あなたのことを忘れてしまって…….」
「別にいい.」
少年は背を向けたままで答える.
「サリナが,俺のことを……,」
言葉の続きは,口にするのがえらく恥かしい.
変わりに少年は,少女の方に体ごと向き直った.
「ライゼリートだ.」
少女はきょとんとした後で,顔を花のようにほころばせる.
「古代語で"理性の光"だね.」
少年は今度は優しく少女を抱き寄せた.
「母が願いをこめてつけた名だ.」
甘く長い口づけを交わす.
少女はまったく抵抗をせずに,それを受け入れた…….




