初めてのお化粧
「ライム王子!」
渡り廊下を歩いていると,どたばたと自分を追いかける足音が近づいてきた.
「王子,待って! 止まって!」
金の髪の幼い少年は振り返る,といきなり薄茶色の髪の少女に抱きつかれた.
「な,何!?」
ぎゅっと強く抱きしめる少女に,少年はとまどう.
どうして,こうも簡単に抱きついてくるのか.
「私,……変な顔をしている!?」
少女は少し泣き出しそうな顔をして聞いてきた.
「変なって……,」
金の髪の少年は瞳をまたたかせて,少女の顔を見返す.
何かいつもよりも,いや,いつもといっても出会ってまだ半年もたっていないのだが,きらきらとしているような気がする.
「もしかしてお化粧をしているの?」
唇がふっくらとしていて,淡い色に染まっている.
触れてみたくなって,少年は不自然に目をそらした.
「キーリ先輩がしてくれたの.」
キーリとは,兄のイスカの同級生の少女である.
なかなかの世話好きで,……そして多分,イスカの恋人になるかもしれない少女だ.
かわいいと思うよ.
心の中に浮かんだ言葉を,少年はなんとか口にしようと努力する.
「ライム王子に見せようと思って,学院の中を歩いていたら,」
少女の言葉に,少年の心がほんのりと暖かくなった.
「イリーナ様に会っちゃって,」
そのまま少女の声はしぼんでしまう.
化粧とは貴族の女性のたしなみである.
平民の女性はしない,いや,高価な化粧品を手に入れることすらできない.
イリーナが少女に何を言ったのか,たやすく想像できた.
少女を慰めないといけない.
抱きしめ返して,「姉上が何を言っても,僕はかわいいと思うよ.」と.
そうすれば,少女はきっとにっこりとほほえんでくれるはずだ.
しかし,実際は…….
少年の手は空をつかむばかりで少女には届かず,口は開こうとしては閉じるを繰り返すばかり.
すると少女が少年の体をそっと離した.
「ありがとう,ライム王子.」
にこっと笑顔を作ってお礼を言う.
「付き合ってくれて.」
「お礼を言われるほどのことはしていない.」少年の言葉はまたも,声にはならなかった.
少女が落ちこんでいたのに,ただぼんやりと抱きしめられていただけである.
「顔を洗ってくるね!」
少女はさっさと,もと来た方へと帰っていった.
走り去る少女に,少年は追いかけるべきか否かで迷う.
どうすればよいのだろう…….
こうゆうときは…….
すると,
「馬鹿! こうゆうときは追いかけろ!」
いきなり後ろから,頭をはたかれた.
「兄さん!?」
振り返ると赤毛の少年が,怒った顔で立っている.
「いつからいたの!?」
ライムはびっくりして聞いた.
「ついさっきだ,こんな目立つところでラブシーンしているお前が悪い!」
兄のせりふに,少年は顔を真っ赤にする.
「そんなことよりも,」
イスカは弟の体の向きを進行方向に向かって変える.
「さっさと追いかけろ!」
どんと背中を押されて,ライムは二,三歩よろめいてから走り出した,
「……ったく,世話の焼けるガキだ.」
背後で兄の声を聞きながら.
学舎の中を走って,少女を探す.
放課後の校舎の中は,人もまばらである.
夕日の差しこむ廊下を,一人走り抜ける.
このマイナーデ学院に入学してから,少年の世界は一気に広がった.
今まで少年には母と,父ではない父がいるだけだったのに.
今では,こうして必死になってまで探したい少女がいる.
追いかけろと言って,背中を押してくれる兄までいる.
少年は教室の中で少女を見つけた,ただし少女は一人ではない.
クラスメイトのユーリと一緒だった…….
少年の心にもやもやとした黒いものが広がる.
なぜだか気が合わない,嫌なやつなんかもいたりする.
さきほどとちがい,にこにこと笑いながらしゃべっている少女にもむかむかする.
夕日の中で,黒髪の少年が少女の唇に手をかける.
ライムは大きな音を立てて,教室の扉を開いた!
ユーリがびくっと震えて少女から手を離す,何も分かっていないらしいサリナは無邪気な笑顔を見せた.
「ライム王子,どうしたの?」
いまだ化粧したままの少女に,さらにむかむかが大きくなる.
金の髪の少年は,むすっとした顔をしてうそをついた.
「サリナ,イスカ兄さんが探していたよ.」
兄を勝手に引き合いに出す.
「イスカ先輩が!?」
少女はあわてて教室から出てゆく.
「また明日ね.」とユーリに向かって手を振って.
「なんだろ,何の用事かな?」
少女のほおが,あからさまに上気している.
この学院の低学年で,人気者の六年生のイスカにあこがれていない子どもなんていない.
つまりサリナは,あこがれの先輩に呼び出されて大喜びということだ.
「さぁ,知らない.」
金の髪の少年はぷいっとそっぽ向いた.
「兄さんに直接,聞けば?」
われながら,冷たい声音になってしまう.
少女を無視して廊下を歩けば,少女があわててついてくる.
「待ってよ,王子!」
その足音が,少年に甘い優越感を与える.
このまま学院の中を兄を探し歩いて,そして兄に会う前に「サリナはかわいい.」と告げればいいのだ.
そう考えると,少年の心の中に余裕が生まれてきた.
簡単なことじゃないか,兄にあこがれる少女にむかつきながらも少年の足取りは軽い.
ただ未来を予知することのできない少年は知らない.
廊下の向こうに兄がクラスメイトたちといて,化粧をしたサリナを「かわいい,かわいい!」とほめてしまうことを…….




