6-1
深い暗い森を通り抜けると,それはある.
シグニア王国最大の教育機関.
南には森を,西北には砂れき王国カッパリアとの砂漠国境地帯を臨む.
そしてはるか東側を見渡せば,西ハンザ王国との実質の国境であるミレー山脈が見渡せるのだ.
大きな外門をくぐり,広い前庭に足をかける.
「帰ってきた!」
赤レンガの校舎を見上げて,薄茶色の髪の少女は単純にうれしそうだった.
淡い緑の瞳をまぶしそうに細めて,くせのある髪が軽く風になびく.
サリナは十歳のときからずっと,このマイナーデ学院の中だけで生活をしている.
ある意味,第二の故郷とも言える場所であった.
「じいさんにあいさつに行こう.」
恋人の感動を受け流して,金の髪の少年が一同を促す.
「うん!」
一人だけ今の状況を分かっていないサリナが,元気よくうなずいた.
その隣では,黒髪の小さな少女が胸をつぶさんばかりに緊張し,薄水色の髪の青年が注意深く後方の男たちの動きを見ている.
授業中ということもあり,学院の中は静かだった.
ライムたちはほとんど誰にも出会うことなく,学院長室までやって来た.
先走る心のままに,金の髪の少年は廊下をかなりの早足で歩いてきたので,リーリアとサリナは少し息を切らしている.
ドアのノブに手をかけて,少年は,
「……いるかな?」
付き人の青年にそっとたずねた.
主語は,コウスイではなくコウスイを見張る者たちのことである.
「学院長様は掃除をちゃんとなさる方です.」
青年はしっかりと主君の意図をくんだ.
「今,ここにいるのは,われわれだけですよ.」
「分かった!」
すると少年はノックもせずに,勢いよく扉を開ける.
「じいさん!」
少年の足もとから黒髪の少女が,部屋の中の人物に向かって駆け出す.
「お父様!」
スーズはびっくりしているサリナの手を引いて部屋の中へ入れ,きっちりとドアを閉めた.
「ライ……!?」
コウスイはいきなり帰ってきた孫に,そして抱きついてきた少女に息が止まるほど驚く.
視線を下げれば小さな少女の黒髪があり,懐かしい声が老人の耳に届く.
「お父様……!」
リーリアは父親の足に抱きついて,さめざめと泣き出した.
夢にまでみた会合に,涙が止まらない.
「ま,まさか……,」
老人は信じられないと,声をかすらせ,瞳を見開かせる.
十五日前のことだ,城の兵士たちがやってきて,コウスイに娘の失踪を知らせた.
そして家でも学院でも,監視の視線を老人は感じつづけてきた.
さすがにうっとおしくなって,つい先日魔法で彼らをしめ出したのだが……,
「……リーリア?」
それは,会いたくて会いたくてたまらなかった娘の名前.
「そうよ! お父様!」
とまどいがちに抱き寄せると,少女はさらに強く抱きついてくる.
子どもの泣き声が,老人を一気に過去の世界へと戻した.
十六歳という幼さで,当時王子であった国王のもとへ嫁がされた娘.
病死した妻の葬儀にも出席することが許されなかった娘が,今,ここにいるのだ.
「よく,逃げて……,」
老人が孫の方へ視線を向けると,金の髪の少年は涙ぐんだ顔をさっと隠す.
「ライゼリートが幻獣の儀式に出ると言うから,」
薄水色の髪の青年が優しく,弟のような年齢差の少年の肩をたたく.
「とめなきゃいけないと思って,」
ただ一人,サリナだけが目を丸くしていた.
「いつの間にか,よく分からない魔法でこんな姿になっちゃった.」
涙にぬれた顔で,娘はいたずらっぽく笑う.
とどのつまりリーリアは息子を思うあまり,魔力を自分の身のうちで暴走させ,結果として正気を取り戻したのはいいが,このような幼い姿になってしまったのだ.
「でも,いいの.この姿のままの方が……,」
リーリアの言葉の続き,それは老人にとって必要のないものだった.
不可解な魔法によって,三十五歳から六歳になってしまった娘.
さすがに国王でも,六歳の幼女を妻として召し上げるわけにはいくまい.
「よかったですね,殿下.」
流れる涙を隠そうとする少年の肩を抱いて,スーズは言った.
彼の主君は,やっと母親を取り戻したのだ.
「ライム……?」
ただ一人この状態がさっぱり分からない少女が,少年の涙に薄緑色の瞳をぱちぱちとさせる.
薄水色の髪の青年は,少し楽しそうに笑った.
「ライム殿下,泣いてないで,サリナに説明してあげてください.」
「な,泣いてなんかっ……!」
ただただあぜんとする少女の前に押し出されると,少年は真っ赤になって否定する.
祖父と母親との再会に,思わず目頭が熱くなってしまったのだが……,
「目が赤いわよ,ライゼリート.」
十九年ぶりに再会した父親に抱かれながら,リーリアがからかいの言葉をかける.
泣きはらした深緑の瞳が,少年とそっくりだった.
サリナが,黒髪の少女リリーが実はライムの母親のリーリアであることを教えられたのは,少年の「俺は泣いていない.」という主張をさんざん聞かされた後であった…….
王国歴1203年,シグニア王国王都シーマリーは奇妙なけんたい感に包まれてる.
国の中心である国王が,まったく精彩を欠いているのだ.
原因は明白である,国王の美しい妻リーリアの失踪であった.
今まで国王がどれだけ女性にふしだらであっても,一人の女性を軟禁していても,誰も何も言わなかった.
政務をつかさどる大臣らも,軍務をつかさどる将軍らも,……ただ王の子どもたちだけはちがったが.
彼らから不満や非難が出なかった理由は,王が国政において優秀な指導者だったからに過ぎない.
……しかし今,その優秀さにほころびが生じようとしていた.
静かに,少しずつ.
「親父,入るぞ,」
軽いノックの後,すぐさま国王の執務室の扉を開く.
たくましい体躯を持つ大男,……通称,赤の第二王子イスカである.
「軍から不満の声が上がって,……親父!?」
部屋の中,胸を押さえて座りこんでいる父親.
「どうしたんだ!?」
赤毛の青年は驚いて,父親のもとへ駆け寄った.
すると父親はまゆを寄せて,苦悩を顔に刻んだままで立ち上がる.
「軍は何と言ってきている?」
何ごともなかったように取り繕って,国王は王子にたずねた.
父親の人を寄せつけない態度に,青年ははなじろむ.
「広い王国内をあてもなく,一人の女性は探せない.」
青年は端的に話を要約して伝えた.
「捜索は続ける.」
誰の意見にも耳を貸さない父親に,青年はむっとする.
「俺は国王としてのあんたは尊敬していた.」
公私の別を欠いた一国の指導者,崩れ落ちてゆく一人の男.
「残念ながら,過去形で言わなくてはならなくなったみたいだがな…….」
 




