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第一章(1)



 陽がゆっくりと落ちてきていた。太陽の光は帯となって、あらゆるところへと降り注ぐ。それはムーア山脈も例外ではなく、今日も光を浴びて輝いていた。


 山脈には自然の産物として谷ができていた。その谷の渓流に沿って道が一本整備されている。それは土をならしただけの簡素なものだが、脇道に逸れるよりもはるかに進みやすい。


 そして谷と村の間に、建物が一件あった。一般住宅にしては大きい。木造三階建ての、建てられてからそこそこ年月の経っていそうな建物である。建物正面の壁からは、突き出すように小さな看板が設置されている。それには『鈴蘭の音色』と記されていた。


 『鈴蘭の音色』とは宿の名である。その宿はここら一帯では唯一の宿だった。村からは歩いて一時間程の位置にあり、そのためか周囲に家などの他の建物は見受けられなかった。けれどそうであるにも関わらず、寂れた印象は受けない。どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。


 この宿は、首都観光者の宿泊先といった場所にはない。むしろ首都から遠い、田舎と言っても差しつかえないような位置にあった。それでも、宿泊客は「鈴蘭の音色」に連日訪れる。それはムーアが国境線となっている山脈、ひいては唯一の通り道である谷に近いためだ。


 隣国からこの国へ、あるいはこの国から隣国へ。国と国を行き来する者たちは必ずムーア谷を通る。そうでなければ別の国を経由して回り込むしかないのだ。そんな面倒、かつ費用のかかることをする者はめったにいない。『鈴蘭の音色』は谷を通過する前、通過した後の人々の休養地となっているのだった。


 宿の扉には「閉店」と書かれた木札がかかっていた。その字は日光を浴びつづけたせいか薄れかけている。突然、その木札が小刻みに揺れ、扉がゆっくりと開いた。女性が一人出てくる。


 歳は三十代後半ほどだろうか。少しくすんだ琥珀色の髪は肩までの長さもない。毛先のはねた髪と真っすぐな姿勢が彼女の快活さを表していた。


 彼女は大きな木箱を抱えていた。中には様々な大きさの瓶が入っている。すべて詮は抜かれており、中身は空だ。木箱を地面に置くと、びん同士が触れ合って小気味良い音を立てた。


 ふうっと息を吐いてから、彼女は再び木箱を持ち上げた。いくら瓶に液体が入っていないといっても、重い。苦労して建物の角までそれを運び、邪魔にならないよう壁に寄せた。


「やあティアナ、こんにちは。……もうこんばんはの時間かな?」


 彼女が腕で額を拭っているところに、カラカラという音が近付いてきた。顔を上げ、声の主に彼女も挨拶を返す。


 ヤクの引く荷車に男が座っていた。荷車には沢山の荷物を載せられそうだったが、今はそこに何も載せられてはいなかった。


 そんな大きな荷車を引く動物には、ヤクが一番ふさわしい。荷をひかせるにはヤク、と昔から決まっているようなものだった。逆に言ってしまうと、ヤクは体が大きく力はあるが、速くは動けない。旅の友や伝令用の乗り物には向かないのだ。


 ヤクは角を左右に振りながら、一定の速度で進む。ティアナはこのヤクを見るたびに、この動物は一体ヤギ科とウマ科、どっちに属するのかしらと疑問に思うのだが、その進み具合を見るところヤギ寄りのようだ。


 宿に近付いてくると男は手綱を片手に持ち替えて、被っていた帽子を持ち上げた。白髪混じりの頭が覗く。


「今日の宴も楽しみにしているよ。手土産は、酒のつまみにチーズでいいかな?」


 男が楽しげに笑う。彼はこの宿近くの村の住人であり、ヤクを飼って生活していた。


「ええ、ありがとう。新鮮なヤクの乳から作られるものは何でも美味しいから、大歓迎よ」


 ティアナも笑みを浮かべた。


 「鈴蘭の音色」は宿屋であると同時に酒場でもある。しかし、二つの事業経営はさすがに大変だった。それで今、「鈴蘭の音色」が酒場として開いているのは満月の夜だけである。ここ数日の月の様子から見るに、今日がちょうどその日だ。それを知った人々はここに集まってくる。村人と旅人が入り混じって、一晩中賑わう。もはや宴だ。


 今夜は忙しい。料理を運んだり酒を出したりと、お客の間を二人でうまく立ち回らなければ。料理も沢山必要になるから、早い時間から作り出さなければならない。やらなくてはならないことは、山積みなのだけれど。


「あいつ、どこまで行ったのかしら……」


 ティアナは空を仰いで呟いた。


「アーク君かい?」


 男はヤクをいなして止めさせる。ヤクは手綱を引かれて前足を浮かせた。ゆったりとした散歩をしている気分だったのだろうか。ヤクは不満げに小さく泣き声をあげた。


「ええ、そう。ほら、今ってソルベの実の熟れる時期じゃない。果実酒を作るって言って、森に採りに行っちゃったのよ。……見なかった?」


 男は今来た方角を振り返った。隣国へと続く道から、少しだけ北に逸れると森がある。小動物も棲息しているし木の実も豊富である。それゆえ、食料目当てに入っていく人も多い。


「いや、見てはいないよ。あとでまたヤクを連れて森の方に行くから、見かけたら一緒に戻ってこようか」


「お願いするわ。また迷ってるのかもしれないんだけど……」


 そう言ってティアナは嘆息し、男は笑った。


 荷車が遠ざかっていくのを眺めてから、彼女は扉にかかっている木札を裏返した。木札は、宿が酒場としても「開店」したことを示す。


 陽は峰の向こうに沈む。橙色に染まっていた空にだんだん濃紺色が混ざってくる。あとはもう夜の帳が下りるのみだ。


 彼女は今一度森の方角を見つめ、建物の中へと入っていった。




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