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序章

初めまして、綿津見と申します。

至らぬところも多々あるかと思われますがお付き合いくださると嬉しいです。







 黒々とした雲が空を覆っている。時は正午だというのに辺りは暗い。枯れかけて緑色など見る影もない草の隙間を、乾いた風が通り抜けていく。


 晴れた日でも陰鬱とした雰囲気が漂うその丘は影の丘と呼ばれていた。国が定めた正式な名前はある。地図の上でもそう表示されているのだが、丘の近隣に住む人々はそう呼ぶ。陰鬱としているからそう呼ばれるようになったのか。影の丘と名付けられたから丘が名に恥じぬ風貌になったのか。どちらが先なのかは知るよしもない。何かここで事件がおきたという話はなかったが、人々はこの丘に近づこうとしなかった。話題にあげることすら少ない。使われるのは例えば、母親が悪戯好きな子供を叱るようなときだ。この一種の脅しは、小さい子どもによく効いた。母親達は丘のある方角に忍ばせるようにそっと視線をやり、そして言うのだ。「そんなに悪戯ばかりしていると、影の丘に置いて行ってしまうよ!」と。


 しかしその丘に、今日に限って人影があった。


 男だ。その男は旅人にしては軽装すぎる、村人にしては薄汚れた格好をしていた。袖のない、ゆったりとした上着を身にまとっている。ローブと呼ばれる類の物だ。フードを目深に被っているせいで顔も見えず、歳を想定することもできない。彼は何をする訳でもなく、ただ佇んでいた。


 やむ気配の一向にない風の音と、枯れ草が触れ合って立てる掠れた音だけが聞こえる。雲は流れているはずなのだが、その切れ間は見えず、陽が差し込むこともない。


 どれほど時が経っただろう。やがて男はゆっくりとローブから左手を出した。


 彼の手には何か握られていた。それは楽器だった。深い茶色をした絃楽器。しかしところどころがへこんでおり、絃は何本か切れている。その表面には繊細な細工がほどこされていたようだが、今は傷によってすっかり駄目になってしまっている。もとは良いものであったことがうかがえる。しかし、今はとても弾けるような状態ではなかった。楽器職人が見れば泣き出すか怒り出すか、とにかく激昂するだろうことは間違いない。


 彼は楽器を両手で持ち直し、口を開く。


「シャレン・ナ・ディフィスカラ」


 風が音を立てるにも関わらず、声はかき消されることなく丘に響いた。男の口調は歌っているようであり、けれどそこからは何の感情も読み取れなかった。


「ユハーラ・メスク・リペルディネ」


 独白なのか、誰かに語りかけているのか。彼の低い声に答えるものはない。


「フレイム──」


 一言口にして、男は息を吸った。


「──イハイム・ラド!」


 彼が叫んだ、瞬間。


 不意に辺りが明るくなった。


 男は顔の前に楽器を持ってきて眺める。


 形は先ほどの楽器と何ら変わってはいなかったけれど、それは白く光っていた。発光の度合いはどんどん強くなっていく。楽器のくすんだ茶色は色を失い、白一色に近づきつつあった。もはや物質と光の境界線も分からなくなってくる。


 彼はその眩しさに直視できなくなったのか、フードをより深く被りなおし顔を背けた。しかし手の平に熱を感じて、慎重に目を向ける。絃は共鳴口の上に弱々しく垂れ下がっていた。今にも溶けてしまいそうだ。楽器は光るとともに熱を出し、確実に温度を上げてきていた。さすがに熱さに耐え切れなくなったのか、彼は小さく忌々しげに舌打ちしたあと、楽器を放った。それなりに質量のある楽器はさほど飛ぶこともなく、小さく弧を描いて枯れ草の中に消える。


 そして、楽器は飽和したかのように音を立てた。爆発にも似た音だった。


 男が見ると、楽器は火の玉と化していた。その火が枯れ草に燃え移るのは当然のこと。炎は手当たり次第に枯れ草へと飛びかかり、酸素を貪欲に喰らった。そして急速に大きくなり、勢力を拡大させていった。


 どこかで鼠の悲鳴が聞こえた。


 男は黙ったままだった。自由を与えられた火が祝宴だというように爆ぜ、彼のローブに焦げ目を作る。煙はもうもうと立ち昇って視界を不明瞭にし、あまつさえ彼の意識を奪おうと彼を取り囲む。いつの間にか周りは火の海となっていて、逃げ道はとうに絶たれていた。しかし彼は焦っている風でも苦しそうでもなかった。


 炎は男を囲み、その円は少しずつ、少しずつ小さくなってきていた。だんだん、燃えていない枯れ草の面積の方が狭くなってくる。男と炎の距離は、手を伸ばしたら炎に触れられる程になった。炎の壁が迫ってくる。彼が今居る場所から、一歩も動けないまでになった。そして──


悪巫山戯(わるふざけ)もいい加減にしろ」


 炎が止まった。


 風に合わせてゆらゆらと揺れていた、パチパチと爆ぜていた、その動きまでもが止まってしまっている。


「いい加減も、何も」


 男とは別の声が聞こえた。けれど彼以外、影の丘には誰もいない。そもそもこの丘に人が一人いることさえ、既に十分に珍しいことなのだ。


 声は続ける。その声音はどこか非難がましい。


「あーあー……。このリュート、気に入ってたのに……。ナクレの親父が作ってくれたやつが灰と化しちまった……。お前な、物に執着心がないってのは良いことっちゃあ良いことかも知れないが、人の気に入りの楽器まで」


「イハイム・ラド」


 大げさにため息まで吐いた声の主を、男が制した。


「黙れ」


 たった一言。しかしその気迫に沈黙が降りた。


「……何かあんた、歪んだな」


 炎が男から引いた。円が大きくなっていき、そこには焼け焦げた地面だけが残る。それはあたかも転がって解けてしまった毛糸玉をするすると引っ張って巻き直しているかのような光景だった。


「歪んだ……」


 男は呟く。


「歪んだ、か! そう言われたのは初めてだ!」


 彼は体を反らせた。フードが落ちる。


 男は笑う。笑い続ける。


 枯れ草はあらかた焼かれ、その灰は地面を黒く染めた。植物のそれとは明らかに違う、何かの焼け焦げた臭いが辺り一面に漂っている。幾筋もの煙が空へと上がっていき、雲に加わる。


 丘に狂った笑い声が響いていた。



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