かみさぶ
これはフィクションです。
実際に現実で実行すると、警察に捕まる等しますので、決して真似をしないで下さい。
街のアンダーグラウンド集団"かみさぶ"に、一人のみすぼらしい男がいた。"かみさぶ"の一番の古株である。
彼のボサボサの髪はフケや白髪で所々白い。長年着込んだのだろう長袖のシャツは、黄ばんで泥だらけだ。
目には正気がなく、どろりとした視線は宙を泳いでいる。
繰り返す変化のない世界は男の感情を腐食させていた。
"かみさぶ"には彼の過去を知るものは居らず、初めのうちは心配していたが、日毎にその感情は薄れていった。
今日も朝から、"かみさぶ"は街中に色を撒き散らす。
赤、青、黄。三原色が飛ぶと、間には虹が生まれた。街中を走り回る彼らの後ろを、使うわけでもなく黒のスプレーを持って、男はついていくのだった。
「おじさんは、描かないの?」
後ろから声がすると、男はそちらを見ずに
「黒は邪魔だからね」
と言った。ふーん、と後ろの声は男についてくる。
眩しかったり、黒光りしたりと、極彩色は明度を変えて街中に広がった。
下の声が、また男に言った。
「じゃあ、おじさんは何をする人なの?」
「誰にも使われない黒を使ってあげるんだよ」
「でも、まだ何も描いていないじゃない」
「駄目なんだ。黒は邪魔だから」
背後から不服そうな唸り声が出た。
――男が"かみさぶ"に入って間もない頃は、彼も三原色を縦横無尽に振り回し、皆と共に走り回っていた。
今の自分にそっくりな、年配の男に、このスプレーを渡されるまでは。
赤でも青でも黄でもない、ラベルさえ貼られていない、銀が丸出しの缶を手にしたとき、男は唖然とした。
自分の才能を妬まれたのだろうか。
「お前になら、これを任せられる」
年配の男はそう言った。
手元の三本のスプレーを取り上げられ、一本の冷たいスプレーを持って、皆が街の終わりに辿り着くまで、何もせずについていくだけ。それはたった一日で、男を絶望させた。
次の朝が来る前、疲れて帰った男に赤髪の少年が冗談半分に言った事を、今でも彼は覚えていた。
「お前の缶、黒なんじゃねぇの? 出番無いなぁ、ご愁傷様」――
夕暮れ、"かみさぶ"は街の終わりで歌い、踊って、酒を煽り、ものを食べていた。終焉の祝いである。色の終焉。そう、男の仕事は、全てを黒く塗りつぶす事だった。
後ろの声は、だんだん苛つき始める。
「どうしてなの。朝は街中真っ白だったじゃない」
「君も人が悪いなぁ。白く塗っているのは君なんだろう?」
終わりの黒、始まりの白。彼らは常に、縦に並んで歩く。先を行く色をゆったりと追いかけて、見届けてから終わらせ、始める。男は確かにそう教わっていた。あの赤髪の少年に。
「ボクじゃないよ」
男は振り返らずに、首を傾げた。
「じゃあ、君の後ろに誰かいるんじゃないかい?」
「誰もいない」
「おかしいな」
「おかしいね」
二人はちっとも、おかしくなさそうに言った。
星が輝く頃に、二人は街の始まりへ着く。
スプレーを軽く振ると、男は後ろ手に黒を撒いた。
背中を口笛が押す。
「わあ、すごいや!」
後ろの声は、飛び跳ねるようすが目に見えるようだった。
「何がだい?」
その喜びように男は思わず振り返る。
そこに広がる光景に、男の目には正気が帰ってきた。徐々に焦点が合っていく。
星明りに道が光っていた。蛍光灯より明るく、白熱灯ほど強くない。ほんのりとした光に、目を奪われた。
――なんということだ。
男が手に持っていたのは、黒ではなかったのだ。
焦点の合った目で前を見ると、色の洪水後が美しく残っていた。
壁に向かってスプレーを吹くと、そこの色が濃くなり、次第に生き返り、光って白くなった。
「すごい……!」
語彙の無い男には、凄いとしか言えなくて、何度もその言葉を繰り返した。
男は駆け出していた。真っ直ぐ前を見て、銀色の缶を振りかざし、昔の自分を思い出すかのように踊る。彼の通った後は、光の道が出来ていた。
街全体に光が溢れ、男の息が切れる頃、ついに朝日が昇った。
光は光に吸い込まれ、一日の始まりには白が残っていた。
息を弾ませて、遠くを見渡す。ふと、あの声の主が居ないことに気付いた。
いつか一緒に走り回る事になったら、この缶はあの子にあげよう。
男は動悸と呼吸が収まるのを待たずに、仲間のいる街の始まりへと走っていった。