第94話 消さない傷
時計台最終修復、二十九日目。
第五工程を終えた翌朝、修は広場の中央から時計台を見上げていた。
中央機構は動いている。
濃青の時計盤には白銀色の針。
鐘楼機構も直った。
内部の階段や手すりも安全に使える。
それでも、外から眺めた時計台はまだ古びていた。
壁には汚れが残り、木部の塗装は剥がれ、屋根には色の違う補修跡がいくつもある。
これまで直してきたのは、時計台の内側が中心だった。
今日からは違う。
町の人たちが最もよく見る部分だ。
【第六工程:外壁・屋根】
【予定期間:10日】
【外装損傷率:39%】
【外壁損傷率:31%】
【屋根損傷率:44%】
【雨水設備損傷率:18%】
【装飾部損傷率:37%】
【完成目標まで:17日】
「十日」
エルクが工程表を見る。
「終わったら残り七日ですね」
「予定通りなら」
「間に合いそうですね」
「まだ言わない方がいい」
修は屋根を見上げた。
修理は、最後まで何が出るか分からない。
特に屋根。
雨と雪と風を二百年以上受け続けた場所だ。
「ご主人様!」
リペが大きな刷毛を持って現れた。
「準備できました!」
「何の?」
「塗ります!」
「何を?」
「全部です!」
修は刷毛を見る。
「どこから持ってきた?」
「塗装職人さんから借りました!」
少し離れたところで塗装職人が首を横に振っている。
借りたのではないらしい。
「返してきて」
「まだ一回も塗ってません!」
「だから今なら間に合う」
「私も塗りたいです!」
「後で安全なところを頼むから」
「本当ですか?」
「本当」
リペは大喜びで刷毛を返しに行った。
エルクがその後ろ姿を見る。
「何を塗らせるんです?」
「足場の板とか」
「時計台じゃないんですね」
「最初から時計台を任せる勇気はない」
「正しいと思います」
作業は屋根から始めた。
足場を最上部まで延ばし、屋根職人たちと一緒に調査する。
屋根材は一種類ではなかった。
建造当初の銅板。
百八十年ほど前の交換部分。
百年前。
六十年前。
三十年前。
年代の違う材料が、まるで継ぎはぎのように並んでいる。
【建造当初屋根材:23%】
【後世交換屋根材:77%】
エルクが驚く。
「ほとんど交換されてる」
「屋根だからな」
雨を受ける。
雪が積もる。
風に晒される。
傷みやすい場所だ。
「これでもアルドの時計台なんですかね」
エルクが何気なく言った。
修は屋根を見る。
建造当初の材料は四分の一にも満たない。
壁も変わった。
歯車も変わった。
軸も変わった。
階段も変わった。
共鳴機構に至っては、今回新しい仕組みを追加した。
「アルドが作った部品が全部なくなったら、アルドの時計台じゃなくなると思う?」
「うーん……」
エルクは考えた。
「分かりません」
「俺も分からない」
修は笑った。
「だから今は、屋根を直そう」
「答え出さないんですか?」
「出なくても修理はできる」
「それも最近多いですね」
「旅で慣れた」
屋根材を一枚ずつ確認する。
交換が必要なもの。
補修できるもの。
そのまま使えるもの。
単純な作業に見えるが、判断する数が多い。
午前中だけで二百枚以上を調べた。
その中に、一枚だけ妙な銅板があった。
【屋根材】
【製作年:約201年前】
【損傷率:22%】
【継続使用:可能】
年代だけなら珍しくない。
問題は表面だった。
細い線が何本も刻まれている。
「傷ですか?」
エルクが尋ねる。
「いや」
よく見る。
文字だ。
雨風でほとんど消えている。
修は角度を変えた。
『三十七年目』
その下。
『まだ雨漏りする』
さらに。
『次こそ直す』
エルクが吹き出した。
「直せてないじゃないですか」
「みたいだな」
「誰が書いたんでしょう」
「分からない」
建造から三十七年目なら、アルドの存命時期と重なる可能性もある。
だが、アルド本人とは限らない。
当時の屋根職人かもしれない。
時計守かもしれない。
町の誰かかもしれない。
「この人、次は直せたんですかね」
「今雨漏りしてないから、誰かは直したんだろうな」
「本人だといいですね」
「そうだな」
修はその銅板へ印を付けた。
交換不要。
補修して残す。
昼過ぎ。
別の場所から声が上がった。
「修!」
屋根職人が呼んでいる。
修とエルクが向かう。
北西側。
屋根材を外した下。
木製の下地が黒く変色している。
修が鑑定する。
【屋根下地】
【表面損傷率:11%】
【内部損傷率:42%】
【原因:過去の雨水侵入】
「広いな」
表からは分からなかった。
雨漏りそのものは、ずっと昔に止まっている。
だが、その時に濡れた木材の一部が内部でゆっくり傷み続けていた。
「交換ですね」
エルクが言う。
「ここは交換」
残す理由はない。
屋根を支える場所だ。
安全が優先される。
範囲を調べる。
およそ二・六メートル。
三本の下地材にまたがっている。
「予定より増えたな」
修が呟く。
【第六工程推定作業期間】
【10日 → 12日】
二日増えた。
完成目標まで十七日。
第七工程には七日を予定している。
余裕はなくなった。
エルクも気づいた。
「間に合います?」
修は工程表を見る。
「まだ間に合う」
「第七工程が五日になりますよ」
「そうだな」
「急ぎます?」
「急がない」
即答だった。
エルクが修を見る。
「でも完成日が」
「屋根を雑に直して鐘を鳴らして、その夜に雨漏りしたら笑えないだろ」
「確かに」
「工程を組み直す」
修は全体を見る。
外壁。
屋根。
雨水設備。
装飾。
すべてを順番にやる必要はない。
職人も違う。
屋根職人が下地を交換している間、大工は別の場所。
塗装職人は外壁。
修とエルクは雨水設備を確認できる。
「並行作業ですか」
「ああ。ただし、お互いの作業が邪魔にならない範囲で」
星渡り大橋で覚えたやり方だった。
一人で全部直す必要はない。
工程を組み直す。
【屋根下地補修:4日】
【屋根材補修・交換:並行】
【外壁補修:並行】
【雨水設備:並行】
【装飾部:後半】
【第六工程推定完了:8日後】
十二日から八日。
ただし条件がある。
修が全部を見ることはできない。
各職人へ判断を任せる必要がある。
「大丈夫ですか?」
エルクが尋ねる。
「何が?」
「修さん、全部確認したい人ですよね」
「……否定できない」
「俺も任されます?」
修はエルクを見る。
「雨水設備を頼む」
「俺が?」
「北側と東側。損傷確認して、直す場所を決めて」
「最後は確認します?」
「報告はして。でも判断はエルクがして」
エルクの顔から笑みが消えた。
「本当に?」
「本当に」
「見落としたら?」
「その可能性はある」
「怖いですね」
「怖いと思ってるうちは大丈夫」
「どうしてです?」
「怖くなくなった時の方が危ないから」
修自身にも言えることだった。
王国公認修理師。
七つの遺産を巡った。
鑑定もある。
それでも。
間違える可能性はなくならない。
「分かりました」
エルクは頷いた。
「やります」
その日の夕方。
修は外壁の確認に回った。
ひび。
欠け。
塗装剥離。
補修跡。
古い傷。
その中に、妙な一角があった。
南西側。
地上からおよそ四メートル。
壁に細かな傷が集中している。
【構造影響:なし】
【補修必要性:なし】
ただの傷だ。
だが数が多い。
「何だろう」
近くで作業していた老人の石工が見上げた。
「ああ、それか」
「知ってるんですか?」
「昔はそこまで足場があったんだよ」
「足場?」
「見物用のな」
現在の時計台に展望用の設備はない。
老人によれば、昔は低い位置に小さな外廊下があり、祭りの日などに子供たちが上がれたという。
七十年以上前に老朽化で撤去された。
「その傷は?」
「子供が名前を彫ってたんだ」
修は壁を見る。
よく見ると。
確かに文字がある。
『トム』
『リナ』
『ガル』
日付。
名前。
意味の分からない絵。
剣。
花。
犬らしきもの。
「落書きですね」
エルクが戻ってきて言った。
「落書きだな」
「消します?」
修は答えなかった。
構造上、消す必要はない。
だが歴史的価値があるのかと言われれば、分からない。
ただの子供の落書きだ。
老人の石工が一つを指差した。
「これ、俺だ」
「え?」
『ガル』
その横。
歪んだ剣の絵。
「八歳の時だったかな」
老人は笑った。
「怒られなかったんですか?」
「めちゃくちゃ怒られた」
「でしょうね」
「父親に一週間、工房の掃除させられた」
エルクが笑う。
老人も笑う。
修は壁を見る。
七十年以上前。
八歳の子供が彫った傷。
その子供は今、時計台を直す石工としてここにいる。
「残します」
修が言った。
老人が少し驚く。
「いいのか?」
「構造に問題ないので」
「落書きだぞ」
「そうですね」
修は笑った。
「だから、新しく増やすのは禁止にします」
「そりゃそうだ」
「昔のは?」
「残します」
老人はしばらく自分の名前を見ていた。
「変なもん残したなあ」
そう言いながら。
少し嬉しそうだった。
翌日。
外壁補修の方針を決めた。
危険な亀裂。
直す。
雨水が入る隙間。
直す。
剥離して落下する可能性のある部分。
直す。
構造に影響しない細かな傷。
残す。
過去の補修跡。
安全なら残す。
子供の落書き。
残す。
ただし今後は禁止。
町長が方針を見て、最後の項目で止まった。
「落書きを保存する歴史建造物なんて聞いたことないぞ」
「駄目ですか?」
「王国の検査官に説明するのはお前だからな」
「説明します」
「最近そればっかりだな」
「俺もそう思います」
町長は呆れながらも許可した。
三日目。
エルクが雨水設備の調査結果を持ってきた。
「終わりました」
「どうだった?」
「北側は二箇所交換。東側は一箇所補修。あと、北東の排水管はこの前直したところなので問題ありません」
「他は?」
「西側も気になったので見ました」
「頼んでないけど」
「時間があったので」
修は少し笑う。
「どうだった?」
「一箇所、詰まりかけてます。ただ、部品交換は必要ないです。掃除だけでいいと思います」
「理由は?」
「損傷じゃなくて、葉っぱと泥が溜まってるだけだから」
修は鑑定する。
【西側雨水管】
【損傷率:6%】
【閉塞率:38%】
【清掃推奨】
正解だった。
「合格」
エルクがほっとする。
「やっぱり確認するんですね」
「報告された場所はな」
「全部見直す?」
「しない」
「本当に?」
「本当に」
エルクは少し驚いた。
修自身も。
少し驚いていた。
四日目。
屋根下地の交換完了。
五日目。
屋根材補修。
六日目。
外壁補修完了。
予定より早い。
多くの職人が同時に動いた結果だった。
七日目。
最後の装飾部へ入る。
時計台上部。
四隅にある金属装飾。
そのうち一つが大きく曲がっていた。
【北西装飾】
【損傷率:61%】
【機能:装飾】
【構造影響:なし】
エルクが見る。
「これは直します?」
「……迷うな」
安全には関係ない。
時計にも関係ない。
鐘にも関係ない。
曲がったままでも時計台は使える。
「直さなくてもいいんじゃないですか?」
エルクが言った。
「どうして?」
「機能ないですし」
「そうだな」
「それに、これも傷ですよね」
修は曲がった装飾を見る。
いつ曲がったのか調べる。
【推定損傷時期:約83年前】
記録を探す。
大嵐。
屋根の一部破損。
装飾一基変形。
『機能上問題なし。修理見送り。』
理由まで残っていた。
「八十三年間、このままか」
「じゃあ残します?」
修は考えた。
外壁の傷。
落書き。
補修跡。
それらは残した。
なら、これも?
しかし。
修は装飾の付け根を調べた。
【固定部負荷:正常】
【将来予測】
【強風時負荷集中あり】
【長期継続時:固定部劣化促進】
「直す」
「見た目じゃなくて?」
「付け根に負担がかかってる」
「なるほど」
曲がっていること自体が問題なのではない。
その結果、未来の損傷につながる。
だから直す。
完全に新品の形へ戻す必要はない。
風の抵抗が正常になるところまで。
形を戻す。
表面の傷は残す。
「傷は残すけど、傷んだままにはしない」
エルクが言った。
修は振り返る。
「今の、いいな」
「そうですか?」
「記録に書こう」
「俺の言葉ですよ」
「名前も書く?」
「それは恥ずかしいのでやめてください」
修は笑った。
八日目。
最後の足場が一部外された。
修が鑑定する。
【第六工程:外壁・屋根】
【進捗率:100%】
【外装損傷率:39% → 6%】
【屋根防水性能:正常】
【雨水設備:正常】
【外壁構造:正常】
【装飾部:安全】
【第六工程:完了】
六本目。
工程表に線を引く。
【全体工程進捗率:91%】
【完成目標まで:9日】
予定より一日余裕ができた。
残る工程は一つ。
第七工程。
全体調整。
「九日」
エルクが言う。
「余裕ありますね」
「一日だけな」
「今度こそ間に合いそうですね」
修は答えなかった。
エルクが笑う。
「まだ言わないんですね」
「最後まで言わない」
「慎重ですね」
「修理屋だからな」
夕方。
大部分の足場が外された。
町の人たちが広場へ集まる。
時計台が姿を現す。
新品ではない。
外壁には色の違う石がある。
補修跡もある。
小さな傷もある。
昔の子供たちの落書きも残っている。
屋根も、よく見れば年代によって色が違う。
それでも。
きれいだった。
修はそう思った。
新しくなったからではない。
直されてきたことが見えるから。
二百三十八年間。
誰かが屋根を直した。
誰かが壁を直した。
誰かが歯車を交換した。
誰かが鐘を守った。
誰かが落書きをした。
誰かが怒られた。
誰かがまた直した。
その全部が残っている。
町長が隣に立つ。
「思ったより古いままだな」
「嫌ですか?」
「いや」
町長は時計台を見上げる。
「こっちの方が、うちの時計台らしい」
修も見上げる。
その時。
ガル老人が家族らしい子供を連れて、南西側の壁へ向かっていた。
「じいちゃん、どれ?」
「あれだ」
「あの下手な剣?」
「昔は上手いと思ってたんだよ」
子供が笑う。
「僕も書いていい?」
「駄目だ」
即答だった。
修も笑った。
時計台は博物館ではない。
過去を閉じ込めておく箱でもない。
今も町の中にある。
使われる。
見られる。
鐘が鳴る。
そして。
これからも傷が増える。
そのたびに。
誰かが直す。
それでいい。
修は修復記録を開く。
第六工程。
最後の欄。
『外観を建造当初の状態へ完全復元することは行わなかった。』
『安全性及び機能に影響しない修理跡、傷、経年変化は可能な限り保存した。』
その下。
エルクの言葉を少し借りる。
『傷は残す。』
『ただし、傷んだままにはしない。』
修は筆を置いた。
残り九日。
七工程のうち。
六工程が終わった。
残るのは。
全体調整。
中央機構。
四面時計。
鐘楼。
共鳴機構。
安全装置。
すべてをつなぎ。
一つの時計台として動かす。
そして。
九日後。
正午。
鐘を一度だけ鳴らす。
修は時計台を見上げた。
ここまで来た。
旅へ出る前は。
この時計台を直すために、七つの遺産を探していると思っていた。
今は違う。
七つの遺産を巡ったから。
どう直すべきか分かるようになった。
第一の音。
傷みに気づくこと。
第二の音。
待つこと。
第三の音。
帰る場所を残すこと。
第四の音。
終わらせること。
第五の音。
次へ渡すこと。
第六の音。
迷いながら選ぶこと。
それらすべてを使って。
今。
時計台を直している。
なら。
七つ目は。
修は一瞬だけ考えた。
だが。
すぐにやめた。
まだ聞こえていない音を。
無理に決める必要はない。
「ご主人様!」
リペが広場の向こうから走ってくる。
「走るな!」
「大変です!」
修の表情が変わる。
「何か壊れた?」
「違います!」
リペが両手に何かを持っている。
それは。
大きな刷毛だった。
「塗る場所がありません!」
修は数秒黙った。
「……足場の板が残ってるだろ」
「時計台がいいです!」
「駄目」
「一箇所だけ!」
「駄目」
「小さく!」
「駄目」
エルクが笑い出す。
広場にも笑い声が広がった。
完成まで。
あと九日。
最後の工程が。
翌朝から始まる。




