第78話 直せない日の直し方
雨は昼になっても止まなかった。
星渡り大橋は白い雨煙の向こうに霞み、中央塔すら時折見えなくなるほどだった。峡谷を吹き抜ける風も次第に強くなり、橋の主索が低く唸っている。
本日の橋上作業は中止。
その判断を変えるつもりは、修にはなかった。
「では、今日やる予定だった作業を全部出してください」
東星町の集会所に、東西の職人たちが集まっていた。机の上には星渡り大橋の図面と工程表が広げられ、雨に濡れた職人たちがその周囲を囲んでいる。
ミレアが工程表を読み上げた。
「橋面支持材の交換が十二本。主索固定具の本締め。中央基礎の調整板交換。それから西側床板の交換が二十八枚」
「その中で、橋の上じゃないと絶対にできない作業は?」
「固定具の本締めと、支持材の取り付け。床板も交換自体は橋の上ね」
「じゃあ、取り付ける前まで終わらせましょう」
東の大工が首を傾げた。
「前まで?」
「床板なら、寸法を測って切る。穴も先に開ける。防腐処理まで済ませる。橋へ持っていったら外して付けるだけにします」
「なるほど」
「支持材も同じです。現場で加工する必要をなくせば、橋の上にいる時間を減らせます」
西の鍛冶屋が工程表を指差した。
「固定具は?」
「仮組みできますか?」
「できる。ただ、一個ずつ微妙に寸法が違うぞ」
「昨日までに測った記録があります」
ミレアが修を見る。
「全部?」
「全部です」
「いつ測ったの?」
「橋を歩くたびに鑑定してました」
「便利すぎない?」
「俺も最近そう思います」
修が真顔で答えると、何人かが笑った。
作業が始まった。
東星町の大工小屋では、西の大工たちも一緒になって床板を加工する。鍛冶場では東西の鍛冶職人が固定具を一つずつ調整し、石工たちは明日使う補強材の形を整えていく。
町のあちこちが、巨大な一つの修理工房になっていた。
そして、その中心をものすごい勢いで往復している者がいる。
「次はどこですか!」
リペだった。
両腕に木材を抱え、背中には工具箱を背負っている。
「大工小屋から鍛冶場へ、この図面を持っていってくれ!」
「了解です!」
「走っていいけど、人にはぶつかるなよ!」
「任せてください!」
リペが飛び出していく。
数秒後。
外から声が聞こえた。
「すみませーん! 水たまりにはぶつかりましたー!」
修は額を押さえた。
「水たまりならいい」
ミレアが笑う。
「ずいぶん基準が下がったわね」
「人じゃなければ合格です」
昼過ぎには、予定していた二十八枚の床板すべての加工が終わった。
さらに、明後日交換予定だった床板まで先に作ることになった。
職人の一人が言う。
「どうせ道具も材料も出てる。もう二十枚いけるぞ」
「お願いします。ただし、寸法確認は一枚ずつしてください」
「分かってるよ」
別の職人が声を上げる。
「支持材も今日中に全部終わるぞ!」
鍛冶場からも報告が来た。
「固定具、十六個終わった! 残り九個!」
橋の上には誰もいない。
それでも工程は進んでいる。
修は手帳へ次々と完了項目を書き込んだ。
午後三時。
一度、全員を集めて進捗を確認する。
【完全修理工程】
【橋上作業進捗:31%】
数字だけなら、朝から変わっていない。
しかし、修が準備工程まで含めて再計算すると表示が変わった。
【全工程進捗率:31% → 38%】
【推定残作業期間:4.6日 → 3.9日】
「七パーセント進んだ!」
リペが喜ぶ。
バルドも数字を見て目を丸くした。
「橋に一度も上がってないのにな」
「修理って、壊れた場所を触っている時間だけじゃないですから」
必要な材料を用意する。
図面を確認する。
道具を整備する。
作業の順番を考える。
安全に働けるように準備する。
それらもすべて、修理の一部だ。
修は窓の外を見る。
雨はまだ降っている。
「むしろ、今日雨が降ってよかったかもしれません」
ミレアが眉を上げた。
「昨日、私が似たようなこと言った時は否定したじゃない」
「橋が壊れてよかったとは言ってません。雨です」
「都合いいわね」
「雨は降りますから」
修は笑った。
「今日できることを全部やっておけば、明日晴れた時に速く動けます」
止まっているように見える時間にも、できることはある。
風待ちの音を知った時と同じだった。
待つとは、何もしないことではない。
夕方になると、雨脚が少し弱くなった。
その頃、西星町から一人の若い男が駆け込んできた。
「ミレア!」
「どうしたの?」
「西の導水路、水が増えすぎてる!」
全員の表情が変わった。
修とミレアはすぐに外へ出た。
西星町へ向かう道の脇を流れる導水路は、見たことがないほど水量が増えていた。
昨日、橋の調整によって東西の水量比は六十五対三十五まで動いている。そこへ豪雨による増水が重なったのだ。
修が鑑定する。
【対象:西星町導水路】
【現在流量:通常時比186%】
【許容流量:通常時比160%】
【危険】
【第二貯水池流入口:過負荷】
「閉めるぞ!」
西の水路職人が調整板へ向かう。
しかし、修が止めた。
「全部は閉めないでください!」
「でも溢れる!」
「町へ入る量だけ減らします。余った分は峡谷へ戻せませんか?」
「古い排水路がある。でも、二十年以上使ってない」
「場所は?」
ミレアが指差す。
「こっち!」
古い排水路は泥と草に埋まっていた。
【対象:西星町旧排水路】
【損傷率:29%】
【閉塞率:74%】
【再使用:可能】
修が工具を取り出す。
「直します」
「どれくらいかかる?」
「人がいれば二時間」
リペが後ろから顔を出した。
「いっぱいいます!」
確かにいた。
橋へ上がれない職人たちが、そのまま西へ来ていた。
大工もいる。
石工もいる。
水路職人もいる。
東星町の職人までいる。
「じゃあ、お願いします」
修の言葉と同時に作業が始まった。
泥を掻き出す。
草を抜く。
崩れた石を積み直す。
詰まった枝を取り除く。
リペは泥の中へ両腕を突っ込み、大量の土砂を一気に持ち上げた。
「取れました!」
「それ、どこに置く?」
「……」
リペが巨大な泥の塊を抱えたまま固まる。
「考えてなかっただろ」
「置き場所を募集します!」
「向こう!」
「了解です!」
泥まみれのリペが走っていく。
今度は誰も止めなかった。
一時間四十七分後。
旧排水路へ水が流れ始めた。
最初は細い流れだった。
それが徐々に太くなる。
【西星町旧排水路】
【閉塞率:74% → 8%】
【排水能力:回復】
【導水路負荷:安全範囲へ低下】
歓声が上がった。
だが、修は流れる水を見つめていた。
「これ、残せませんか?」
西の水路職人が聞き返す。
「排水路を?」
「はい。雨の日だけじゃなくて、普段も使えるように」
「何に使う?」
「貯水池が満杯になった時の逃がし道です。それに、水路の一部を止めて修理する時にも使える」
職人が目を見開いた。
これまで西星町には水が少なかった。
余った水を逃がす設備など、必要がなかった。
しかし橋が直れば、水量は増える。
暮らしが変われば、必要な設備も変わる。
ミレアが苦笑する。
「橋だけ直して終わりじゃないのね」
「そうみたいです」
「また仕事増やす」
「今日はこれ以上やりませんよ」
「珍しい」
「橋が先です」
修は笑った。
ただ、手帳には書いておく。
『西星町旧排水路――橋修理後、恒久整備』
忘れないために。
その夜。
雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から、星が一つ見えている。
明日は橋へ戻れそうだった。
修は野営地で工程表を確認する。
【推定残作業期間:3.9日】
【期限まで:4日】
余裕は二時間ほどしかない。
昼の時点では余裕が増えていたが、西の排水路対応で予定外の時間を使った。
それでも必要な仕事だった。
「ぎりぎりですね」
リペが隣から覗く。
「ああ」
「二時間なら、お昼ご飯を抜けば――」
「抜かない」
「即答!」
「腹減った職人に橋を直させる方が怖い」
「では、お昼ご飯を二倍速で食べます!」
「普通に食べろ」
リペは難しそうな顔をした。
「時間というのは手強いですね」
「そうだな」
修は手帳を閉じようとして、ふと星渡りの天秤を思い出した。
昨日は成立率四十一%。
今日は橋そのものには触れていない。
それでも、なぜか確認したくなった。
中央塔へ向かう。
雨上がりの橋は濡れていたため、修とミレアだけが安全索を付け、慎重に中央まで歩いた。
塔の内部では、星渡りの天秤が静かに待っている。
東の『往来』。
西の『選択』。
二枚の札は、そのままだった。
修が触れる。
【第六の音】
【未成立】
【成立率:58%】
「増えてる」
ミレアも表示を見る。
「今日は橋を直してないのに」
「やっぱり修理率じゃない」
昨日は四十一%。
今日は五十八%。
橋ではなく、何か別のものを量っている。
修は今日の出来事を思い返す。
東の職人たちが、西の導水路を直した。
自分たちの町へ流れる水が減り始めているのに、その水を受け取る側の設備を一緒に直した。
西の職人たちも、東で橋の部材を作った。
もう「東の問題」「西の問題」と分けていない。
「ミレアさん」
「何?」
「西の排水路を直してた時、東の人もいましたよね」
「いたね」
「誰かに頼まれてました?」
「いいえ。勝手についてきた」
「ですよね」
修は天秤を見る。
失いたくないもの。
東は往来。
西は選択。
最初は、それぞれ自分の町のために選んだ言葉だった。
しかし、往来とは片側だけでは成立しない。
選択も、行き先がなければ意味がない。
東が西を必要とし、西も東を必要とする。
二つの札は最初から、別々の願いではなかったのかもしれない。
ミレアが天秤を見る。
「六つ目の音は音じゃない」
「ああ」
「だったら何?」
修は少し考えた。
「まだ分かりません」
「五十八%なのに?」
「五十八%分かった、とは書いてないですから」
「確かに」
二人で笑った。
その瞬間だった。
外から大きな音が響いた。
ゴォン――。
二人の表情が変わる。
鐘ではない。
橋の下。
中央基礎からだ。
修が駆け出し、床へ手を当てる。
鑑定。
【中央基礎調整機構】
【水圧上昇】
【自動調整機構:作動開始】
「勝手に動いてる」
ミレアが息を呑む。
豪雨で峡谷の水量が増えたことで、百年以上まともに動いていなかった機構に圧力がかかったらしい。
歯車がゆっくり回っている。
一つ。
また一つ。
錆びついた機構が、長い眠りから目覚めるように動き始めた。
【東側水量:63%】
【西側水量:37%】
数字が変わる。
「待って」
修が調整機構を見る。
【東側水量:61%】
【西側水量:39%】
止まらない。
本来の五十対五十へ向かっている。
「ご主人様ー!」
外からリペの声がした。
どうやら後から追ってきたらしい。
「水がすごいです!」
「分かってる!」
修は機構を調べる。
止めることはできる。
手動固定。
所要時間十分。
しかし、止めるべきなのか。
東星町の水利用改善は、四十九・六%まで依存量を下げる計画だった。
だが、その数字には雨水設備の完成と、各工房の再利用設備が正常に動くことが前提として含まれている。
設備はすでに動き始めている。
それでも、予定より早い。
【東側水量:59%】
【西側水量:41%】
ミレアが修を見る。
「止める?」
修は答えなかった。
これは自分一人で決めることではない。
「バルドさんを呼びます」
「今から?」
「今だからです」
三十分後。
中央塔にバルドが到着した。
事情を聞き、動き続ける機構を見る。
【東側水量:57%】
【西側水量:43%】
「止められるのか?」
「はい」
「止めなかったら?」
「このままなら五十対五十まで動きます」
バルドは黙った。
東星町が百年間守ってきた七割の水。
それが今夜、予定より早く終わるかもしれない。
修は何も言わない。
決めるのは東星町だ。
やがてバルドが尋ねた。
「今止めたら、橋の修理に影響するか?」
「少しだけ工程が増えます。でも、大きな問題ではありません」
「なら、止めてもいいわけだ」
「はい」
バルドは目を閉じた。
長い沈黙だった。
リペも何も言わない。
ミレアも待っている。
やがてバルドが目を開けた。
「止めない」
修は静かに頷いた。
「分かりました」
「町には俺が説明する。準備が足りないところがあれば、今夜中に対応する」
「手伝います」
「いや」
バルドが笑った。
「修理師は寝ろ。明日、橋を直すんだろ」
「でも――」
「こっちの町まで全部お前が直すな」
修は言葉を止めた。
バルドは中央塔の出口へ向かいながら振り返る。
「東星町のことは、東星町の人間にも直させてくれ」
それだけ言って、雨上がりの橋を戻っていった。
修はしばらく動かなかった。
やがて、天秤から小さな音が聞こえた。
チン――。
振り返る。
【第六の音】
【未成立】
【成立率:74%】
ミレアが笑った。
「また増えた」
「ああ」
「今度は分かった?」
修は、バルドが去った方向を見る。
自分たちで決める。
自分たちで失う。
そして、自分たちで次の暮らしを作る。
修理師が答えを与えるのではない。
「少しだけ」
修が答えた。
夜が更ける頃、水の流れはついに止まった。
【東側水量:50%】
【西側水量:50%】
星渡り峡谷に、百年ぶりの水の流れが戻った。
歓声はなかった。
鐘も鳴らなかった。
ただ、東へ流れる水と西へ流れる水が、同じ量になった。
修はその静かな流れを見つめていた。
六つ目の音は音ではない。
その意味が、もうすぐ分かるような気がした。
そして翌朝。
雲の切れ間から朝日が差し込み、濡れた星渡り大橋を照らした。
完全修理期限まで、残り三日。
推定残作業期間も、ほぼ三日。
もう余裕はない。
それでも橋の東側には東星町の職人たちが、西側には西星町の職人たちが集まっていた。
修が中央塔で工具箱を開く。
「さて」
百年ぶりに均等な水が、その足元を流れている。
修は橋へ手を置いた。
「続きを直そうか」
東と西の両側から、同時に金槌の音が響き始めた。




