雨の中の演奏会
扉を開けると、雨の匂いと温かい空気が一緒に顔にかかった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥からルークが顔を上げる。ロキは店内をざっと見渡した。客の姿はなく、カウンターに見慣れない青年が一人いるだけだった。
「びしょ濡れじゃない」
ルークが奥へ引っ込む前にそう言って、すぐタオルを二枚持って戻ってきた。クエルが「助かるよ」と笑う。
ロキは短く礼を返し、濡れた髪へタオルを押し当てた。冷えた頭に、じわりと温度が戻ってくる。
カウンターの青年がこちらへ顔を向けた。目が合う。
「どうも」
「こんにちは」
クエルが穏やかに返す。
「シスイたちと一緒に演奏してる子よ」
そう言われて、ロキはもう一度青年を見た。
年齢は自分たちとそう変わらない。譜面を広げたまま、どこか気の抜けた顔でこちらへ会釈してくる。
シスイの周りには、いつの間にか人が集まっている。
ロキはそれを、最近よく見る気がしていた。
二人はいつもの席へ腰を下ろした。窓の外では、雨が石畳を叩きつけている。通りに人影はほとんどない。
しばらくして、ルークがカップを運んできた。
「今日はサービスよ。この雨じゃ誰も来ないから」
湯気の立つカップを両手で包む。じんわりと温かさが手のひらに広がった。
二階から足音が降りてきた。
「フェリックス、待たせてごめん」
シスイの声だった。
その後ろを、リュシアンがゆっくりと続く。
ロキは無意識に顔を上げた。
シスイがカウンターへ向かいかけて、こちらに気づいて足を止める。
「あ、いらっしゃい」
それから、濡れた二人の様子に目が止まった。
「寒くない?大丈夫?」
「あぁ、平気だ」
シスイは安心したように「そっか」と頷いて、カウンターへ向かった。
そこで目に入ったのは、フェリックスのカップだった。
「あ、また譜面の上に置いてる。こぼしても知らないよ」
「わるいわるい」
フェリックスが慌てて動く。その拍子に譜面の一部がひらりと落ちた。リュシアンが静かに拾い上げ、フェリックスへ渡す。
「助かる」
「あはは、落ち着いて」
シスイが笑うと、フェリックスも悪びれずに笑い返した。
そのやり取りが妙に自然だった。
フェリックスが譜面を広げ直すと、シスイが自然に覗き込んだ。ヘッドホンを差し出しながら、フェリックスが言う。
「ここどうかな。ずっと気になってて」
シスイが耳に当てて目を閉じた。しばらくして外す。
「ここの入り、もう少し溜めた方がいいと思う」
「あー、そこか。俺もそこ引っかかってた」
今度はリュシアンへヘッドホンが渡る。一度聴いてから、短く返した。
「俺も気になったのは同じところだ」
音楽の話をするとき、シスイは少し声のトーンが変わる。
演奏している姿は見たことがある。
けれど、こうして誰かと音を作っている時の顔は、知らなかった。
クエルの話へ相槌を返す。
けれど気づけば、視線はそちらへ向いていた。
「今日は雨だし、もう店を閉めておくわ」
ルークが看板を裏返しに行きながら、こちらへ振り返った。
「あなたたちはゆっくりしていってちょうだいね」
鍵の音がして、外の雨音が急に近くなったような気がした。
三人の話が一区切りしたところで、フェリックスがシスイを見た。
「なぁ、実際に弾いてみてくれないか。イメージ確認したい」
シスイが頷きかけて、ふとこちらへ目を向ける。ロキと視線が合った。
「少しだけ弾いてもいい?」
「あぁ、もちろんだ。俺も聴きたい」
シスイは小さく笑ってから、店の奥のステージへ歩いていった。
椅子を引く音。鍵盤の前に座って、少しの間だけ静止する。手を膝の上に置いたまま、何かを確かめるように。
最初の一音が落ちた。
思ったより、小さな音だった。でも消えなかった。空気の中に溶けながら、次の音を引き連れてくる。
窓の外の雨音が、旋律の隙間に混ざっている。
シスイは鍵盤へ視線を落としたまま、静かに指を動かしていた。
指が滑るたびに、ほんの少しだけ表情が緩む。
それを隠す様子もなかった。
さっきフェリックスたちと譜面を囲んでいた時も、こんな顔をしていた気がする。
ロキはカップを持ったまま、動けなかった。
気づけば、息を詰めるようにして演奏を聴いていた。
いつの間にか、視線はシスイの横顔へ向いている。
目を逸らそうとは思わなかった。
最後の音がゆっくりと薄れていく。
残ったのは、窓を叩く雨音だけだった。
そこでようやく、ロキは息を吐いた。
「それ! 今の!」
フェリックスが身を乗り出した。
ルークが柔らかく拍手をする。シスイが鍵盤から手を離してフェリックスへ顔を向けた。
「いけそうだった?」
「最高。これだよこれ」
フェリックスが嬉しそうに笑う。シスイが少し照れたように笑った。
ロキは遅れて、手の中のカップが冷めていることに気づいた。いつの間に。
「ロキ」
クエルの声だった。静かで、からかう気配はない。
「……なんだ」
「別に」
向かいの席で、クエルは静かにカップを回した。




