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雨の中の演奏会

作者: Mitsuki
掲載日:2026/06/01

扉を開けると、雨の匂いと温かい空気が一緒に顔にかかった。


「いらっしゃい」


カウンターの奥からルークが顔を上げる。ロキは店内をざっと見渡した。客の姿はなく、カウンターに見慣れない青年が一人いるだけだった。


「びしょ濡れじゃない」


ルークが奥へ引っ込む前にそう言って、すぐタオルを二枚持って戻ってきた。クエルが「助かるよ」と笑う。


ロキは短く礼を返し、濡れた髪へタオルを押し当てた。冷えた頭に、じわりと温度が戻ってくる。


カウンターの青年がこちらへ顔を向けた。目が合う。


「どうも」


「こんにちは」


クエルが穏やかに返す。


「シスイたちと一緒に演奏してる子よ」


そう言われて、ロキはもう一度青年を見た。

年齢は自分たちとそう変わらない。譜面を広げたまま、どこか気の抜けた顔でこちらへ会釈してくる。


シスイの周りには、いつの間にか人が集まっている。


ロキはそれを、最近よく見る気がしていた。


二人はいつもの席へ腰を下ろした。窓の外では、雨が石畳を叩きつけている。通りに人影はほとんどない。


しばらくして、ルークがカップを運んできた。


「今日はサービスよ。この雨じゃ誰も来ないから」


湯気の立つカップを両手で包む。じんわりと温かさが手のひらに広がった。


二階から足音が降りてきた。


「フェリックス、待たせてごめん」


シスイの声だった。


その後ろを、リュシアンがゆっくりと続く。


ロキは無意識に顔を上げた。


シスイがカウンターへ向かいかけて、こちらに気づいて足を止める。


「あ、いらっしゃい」


それから、濡れた二人の様子に目が止まった。


「寒くない?大丈夫?」


「あぁ、平気だ」


シスイは安心したように「そっか」と頷いて、カウンターへ向かった。


そこで目に入ったのは、フェリックスのカップだった。


「あ、また譜面の上に置いてる。こぼしても知らないよ」


「わるいわるい」


フェリックスが慌てて動く。その拍子に譜面の一部がひらりと落ちた。リュシアンが静かに拾い上げ、フェリックスへ渡す。


「助かる」


「あはは、落ち着いて」


シスイが笑うと、フェリックスも悪びれずに笑い返した。


そのやり取りが妙に自然だった。


フェリックスが譜面を広げ直すと、シスイが自然に覗き込んだ。ヘッドホンを差し出しながら、フェリックスが言う。


「ここどうかな。ずっと気になってて」


シスイが耳に当てて目を閉じた。しばらくして外す。


「ここの入り、もう少し溜めた方がいいと思う」


「あー、そこか。俺もそこ引っかかってた」


今度はリュシアンへヘッドホンが渡る。一度聴いてから、短く返した。


「俺も気になったのは同じところだ」


音楽の話をするとき、シスイは少し声のトーンが変わる。


演奏している姿は見たことがある。

けれど、こうして誰かと音を作っている時の顔は、知らなかった。


クエルの話へ相槌を返す。

けれど気づけば、視線はそちらへ向いていた。


「今日は雨だし、もう店を閉めておくわ」


ルークが看板を裏返しに行きながら、こちらへ振り返った。


「あなたたちはゆっくりしていってちょうだいね」


鍵の音がして、外の雨音が急に近くなったような気がした。


三人の話が一区切りしたところで、フェリックスがシスイを見た。


「なぁ、実際に弾いてみてくれないか。イメージ確認したい」


シスイが頷きかけて、ふとこちらへ目を向ける。ロキと視線が合った。


「少しだけ弾いてもいい?」


「あぁ、もちろんだ。俺も聴きたい」


シスイは小さく笑ってから、店の奥のステージへ歩いていった。


椅子を引く音。鍵盤の前に座って、少しの間だけ静止する。手を膝の上に置いたまま、何かを確かめるように。


最初の一音が落ちた。


思ったより、小さな音だった。でも消えなかった。空気の中に溶けながら、次の音を引き連れてくる。


窓の外の雨音が、旋律の隙間に混ざっている。


シスイは鍵盤へ視線を落としたまま、静かに指を動かしていた。


指が滑るたびに、ほんの少しだけ表情が緩む。


それを隠す様子もなかった。


さっきフェリックスたちと譜面を囲んでいた時も、こんな顔をしていた気がする。


ロキはカップを持ったまま、動けなかった。


気づけば、息を詰めるようにして演奏を聴いていた。


いつの間にか、視線はシスイの横顔へ向いている。


目を逸らそうとは思わなかった。


最後の音がゆっくりと薄れていく。


残ったのは、窓を叩く雨音だけだった。


そこでようやく、ロキは息を吐いた。


「それ! 今の!」


フェリックスが身を乗り出した。


ルークが柔らかく拍手をする。シスイが鍵盤から手を離してフェリックスへ顔を向けた。


「いけそうだった?」


「最高。これだよこれ」


フェリックスが嬉しそうに笑う。シスイが少し照れたように笑った。


ロキは遅れて、手の中のカップが冷めていることに気づいた。いつの間に。


「ロキ」


クエルの声だった。静かで、からかう気配はない。


「……なんだ」


「別に」


向かいの席で、クエルは静かにカップを回した。

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