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番外編 調律者の冷徹な記録――プログラムの先に見た、人の業と救済

青白いマルチモニタの光が、私の視界を支配している。

外光を遮断した、室温二十二度に保たれたサーバールーム兼執務室。ここが私の世界のすべてであり、十文字旭という男の「戦場」の裏側だ。


「……神代瑠璃花。バイタルサイン、正常。発汗量、増加。瞳孔の散大を確認」


私はヘッドセットの向こう側で、恵比寿のパーティー会場に仕掛けた高感度カメラの映像を分析していた。

ドレスの裾を汚し、地べたに這いつくばる彼女の姿は、数値で見ればただの「崩壊したデータ」に過ぎない。しかし、その絶叫がマイクを通じて私の鼓膜を震わせるとき、微かな、本当に微かな高揚感が胸の奥を通り抜ける。


私が旭さんに拾われたのは、五年前の冬だった。

当時、私は独学で覚えたハッキング技術を使い、企業のサーバーを荒らしては小銭を稼ぐ、ただの孤独な野良犬だった。

ある日、鉄壁だと思っていた私のセキュリティを紙切れのように引き裂いて現れたのが、旭さんだ。


「君のコードには、意志がない。ただ壊すだけなら、それは知性ではなく暴力だ」


警察に突き出されると思っていた私に、彼は手を差し伸べた。

それ以来、私は彼の影、あるいは彼というシステムの「調律者チューナー」として、数々の人生の再構築に加担してきた。


今回のターゲット――いえ、被験体と言ったほうが正しいかもしれない。

神代瑠璃花という女性のプロデュースは、私にとっても非常に興味深いケースだった。


「旭さん。神代さんの今月の美容メンテナンス費用、さらに三割増加しています。彼女、自分をダイヤモンドか何かだと思い込み始めているようですが」


二年前、私がそう報告したとき、旭さんは窓の外を眺めながら静かに笑っていた。


「いいんだよ、凪沙。人は、自分の価値が上がっていると信じ込むと、足元を見なくなる。彼女に与えるのは『最高の鏡』だ。鏡が美しければ美しいほど、彼女は鏡の中にいる自分しか愛さなくなる」


私はその言葉の意味を、データの推移として観察し続けた。

彼女のSNSアカウントに流し込む人工的な称賛。彼女の肌を磨き上げるための医療機関の調整。彼女が身に纏うブランド品が、いかに彼女を「高嶺の花」として演出するか。

そのすべてを設計したのは旭さんであり、実行したのは私だ。


彼女は、自分が浴びている賞賛が、実は裏で私が走らせている数千のスクリプトと、旭さんの膨大な資金によって作られた「虚像」であることに、最期まで気づかなかった。

毎日、鏡を見て満足げに微笑む彼女の映像を監視カメラ越しに見るたびに、私は彼女の愚かさに呆れ、同時に、それを作り上げた旭さんの手腕に畏怖を感じていた。


「凪沙、皇凱旋の端末にアクセスしてくれ。彼がどこから資金を引っ張っているのか、全ルートを洗うんだ」


浮気が発覚した夜、旭さんの声は驚くほど平坦だった。

怒りも、悲しみも、そこにはない。ただ、長年丹精込めて育ててきた盆栽に、害虫がついたのを見つけた時の、冷徹な排除の意志だけがあった。


私はすぐに作業を開始した。

皇凱旋。自称・実業家。

彼のデジタル上の足跡は、粗雑そのものだった。

レンタルしたオフィスの契約書、名義を貸しているだけのペーパーカンパニー、そして複数の消費者金融からの督促メール。

彼は、瑠璃花という「宝石」を盗むことで、自分の人生を逆転させようと目論んでいた。

しかし、彼が盗もうとした宝石は、中身のないガラス玉であり、しかもその中には強力な爆薬が仕掛けられていたのだ。


「……面白いですね。彼は神代さんのカードを使い、自分自身の借金を返済しようとしています。それを『投資の配当金』だと言って彼女を信じ込ませている」


「共食い、だね。どちらも相手を獲物だと思っている。凪沙、彼らにはもっと大きな『夢』を見せてあげよう。逃げ場のない、最高の夢を」


旭さんの指示に従い、私は彼らに「偽の未来」を提供した。

限度額が無限に見えるカード。

数億円の出資を約束する謎の投資家『N』。

十億円の豪邸という、手の届かないはずの蜃気楼。


彼らがその嘘に酔いしれれば酔いしれるほど、私の手元のグラフは急勾配を描いて上昇していく。

そして、そのグラフが頂点に達した瞬間――。


私はパーティー会場の制御卓を操作し、すべてを「ゼロ」に戻した。


「アカウント削除。資産凍結。信用情報へのブラックリスト登録。……完了です」


画面の中で、瑠璃花さんがスマホを見て絶望に染まる。

凱旋さんが取り立て屋に囲まれ、情けなく悲鳴を上げる。

その光景を、私は無機質な部屋から見つめていた。


「旭さん、神代瑠璃花さんの全データの消去、終了しました。彼女は今、法的にも社会的にも、何の価値も持たない存在になりました」


マイクを通じて旭さんに報告する。

彼は会場の中央で、地べたに座り込む彼女を見下ろしていた。

その瞳には、かつての愛情の欠片も残っていない。


「お疲れ様、凪沙。……彼女はね、最後まで気づかなかったんだ。僕が彼女を愛していたのは、彼女という存在そのものではなく、彼女が『僕の作品』だったからだということに」


その言葉を聞いたとき、私は少しだけ、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

それは、彼女への同情ではない。

私自身もまた、旭さんという巨大なシステムの一部であり、彼の「作品」の一つではないかという、微かな恐れだ。


パーティーが終わり、旭さんが車に戻ってきた。

車内には静寂が漂い、窓の外を流れる街灯の光が彼の横顔を断続的に照らす。


「旭さん。一つ聞いてもいいですか?」


私は、本編でも彼に尋ねたあの質問を、もう一度心の中で繰り返した。


「彼女を……愛していたんですか?」


旭さんは少しだけ窓を開け、夜の空気を吸い込んだ。


「凪沙。愛とは、対象を理想の形に彫り上げることだ。僕は彼女を完璧な女神に彫り上げた。彼女がその形を維持している限り、僕は彼女を愛していたよ。……でも、彼女は自らその形を壊し、ただの泥に戻った。泥を愛でる趣味は、僕にはないんだ」


その答えは、あまりにも彼らしかった。

彼は人を「人」として見ているのではない。

彼は、この混沌とした世界に秩序をもたらす「神」を演じているのだ。

そして私は、その神の隣に侍る、最も忠実な天使――あるいは、悪魔の代行者。


「次の案件です、旭さん。一条院美琴。彼女は、神代さんのような『泥』ではありませんよ。本物の、磨き甲斐のある原石です」


私は新しい資料をタブレットに表示させた。

旭さんはそれを一瞥し、満足げに頷いた。


「ああ、楽しみだ。今度は、壊れないように慎重に、かつ大胆にプロデュースしよう」


車は夜の闇を切り裂いて走る。

バックミラーには、先ほど放り出された瑠璃花さんのいたホテルが、小さく遠ざかっていくのが見えた。

彼女は今頃、冷たい雨に打たれながら、自分が失ったものの大きさに絶望しているだろう。

だが、その絶望さえも、旭さんの計算通りだ。

彼女は一生、自分が「旭さんという神様」の不興を買ったために追放されたのだと思い込み、後悔という名の牢獄で過ごすことになる。


それは、死よりも残酷な刑罰。

でも、それが彼という男に背いた者に与えられる、唯一の「対価」なのだ。


私は、再びマルチモニタの前に戻った。

次のターゲット、一条院美琴のデジタル情報を収集し、彼女の人生をどう彩り、どう支配するかを構築し始める。


私の指先がキーボードの上を踊る。

カチャカチャ、という乾いた音が、静かな部屋に響き渡る。

プログラムが走り、データが蓄積され、新しい「人生」の設計図が描かれていく。


「凪沙。君は、僕の隣にいて疲れないかい?」


ふいに、旭さんがそう尋ねてきた。

私はキーを叩く手を止めず、画面を見つめたまま答えた。


「疲れ、という概念は理解していますが、私には当てはまりません。私は、旭さんが作る『完璧な世界』を、最も近くで観測していたいだけですから」


「……そうか。なら、これからもよろしく頼むよ。僕の、唯一無二のパートナー」


パートナー。

その言葉が、私の回路を熱くさせる。

愛でも、依存でもない。

ただ、同じ理想を共有し、同じ深淵を見つめる者同士の、共犯関係。


神代瑠璃花が欲しがって、決して手に入れられなかったもの。

それは、旭さんの金でも、名声でもない。

彼の視線の先にある「真実の世界」の一部になること。


私は、彼女よりもずっと幸福だ。

たとえ、私がただの「便利な道具」であっても、彼の視界の中に、明確な役割を持って存在しているのだから。


「旭さん、一条院美琴の脆弱性を発見しました。……ここを突けば、彼女は一週間以内に、あなたに助けを求めてくるでしょう」


「早いね、凪沙。流石だよ」


私は少しだけ、自分でも気づかないほど微かに、口角を上げた。

新しい幕が上がる。

次は、どんな美しい、あるいは残酷な物語が紡がれるのか。


私は、調律者。

十文字旭という怪物の隣で、世界の音律を狂わせ、整える者。

青白い光に照らされた私の瞳に、新しい「獲物」のデータが、残酷なまでに鮮やかに映し出されていた。

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