番外編 自称・天才実業家の華麗なる墜落――寝取ったつもりの俺が、怪物に喰われるまで
ガラス張りのオフィス、港区の夜景を背に、俺は最高級のワークチェアに深く腰掛けていた。
デスクに置かれた名刺には『株式会社スメラギ・インベストメント 代表取締役 皇凱旋』という文字が踊っている。
もっとも、このオフィスは月額数万のバーチャルオフィスにオプションで付けた時間貸しの会議室だし、この椅子もたまたまその場にあった備品に過ぎない。
だが、そんなことは些細な問題だ。
「……ふん、今日もまた一羽、カモが釣れたな」
俺はスマホの画面を眺め、ほくそ笑んだ。
画面には、神代瑠璃花からのメッセージが表示されている。
『凱旋さん、今日もお仕事お疲れ様。明日、例のレストランで会えるかな? 旭には適当に嘘ついておくから』
瑠璃花。
SNSで数十万のフォロワーを抱える、絶世の美女インフルエンサー。
そして、十文字旭という、何の特徴もない冴えないエンジニアの婚約者。
彼女を寝取るのは、驚くほど簡単だった。
俺は自称・若手実業家としての「演出」には、並々ならぬ情熱を注いでいる。
SNSにはレンタルしたフェラーリとのツーショットを上げ、時計は銀座の質屋で見つけた中古のロレックス。言葉巧みに「次世代の投資スキーム」だの「世界を変えるイノベーション」だのと吹聴すれば、瑠璃花のような「自分が特別だと思い込みたい女」はコロリと落ちた。
俺が瑠璃花に近づいた目的は、女としての魅力だけではない。
彼女の背後にいる婚約者、十文字旭。
瑠璃花から聞いた話によれば、あいつは在宅のエンジニアで、派手な生活を好まないが、相当な額を貯め込んでいるという。
瑠璃花が贅沢三昧できているのは、すべてあいつの金。つまり、十文字旭は「金はあるが無欲な、最高の養分」なのだ。
「あんな陰気なエンジニアに、瑠璃花のようなダイヤの原石は勿体ない。彼女を輝かせることができるのは、俺のような『選ばれた男』だけだ」
独り言を呟き、俺は赤ワインを口にした。
俺の計画は完璧だった。
瑠璃花を完全にこちら側に引き込み、旭と結婚させてから離婚させ、慰謝料と財産分与で数億円をふんだくる。
あるいは、瑠璃花を通じて旭の資産を俺の「架空の投資ファンド」に注ぎ込ませ、そのままドロンする。
どちらにせよ、俺の人生の「大逆転」の舞台装置は、すべて整ったはずだった。
だが、あの時から少しずつ、歯車が狂い始めたのだ。
「……おい、どうなっている。なぜこのカードが使えないんだ」
ある日の午後、俺は六本木のセレクトショップで、瑠璃花に贈るためのブランド物のバッグを決済しようとしていた。
だが、店員が戻ってきて申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ございません、皇様。こちらのカード、現在利用が制限されているようでして……」
「馬鹿な。限度額にはまだ余裕があるはずだぞ。システムエラーじゃないのか?」
「いえ、発行元からは『著しい信用不安』のためと回答が来ております」
俺は舌打ちをし、別のカードを差し出した。
それもエラー。その次も、エラー。
冷や汗が背中を伝う。
最近、俺の資金繰りは限界に達していた。見栄を張るための高級車、ブランド服、そして瑠璃花を繋ぎ止めるための豪華な食事。それらすべてを「借金」で賄っていたからだ。
だが、俺には秘策があった。
数日前、俺のもとに一通のダイレクトメッセージが届いたのだ。
送り主は『N』と名乗る謎の投資家。
『あなたの提唱するインフルエンサー育成ファンドに興味があります。数億円規模の出資を検討したい』
そのメッセージに、俺は飛びついた。
まさに渡りに船。この出資さえ手に入れば、すべての借金を返し、瑠璃花を連れて海外へ高飛びすることだってできる。
投資家からは、一つだけ条件を提示された。
『出資者の信頼を得るために、確実な資産背景を持つパートナーがいることを証明してほしい』
俺は迷わず、瑠璃花にその役目を振った。
彼女が旭から奪う予定の「十億円の家」の話を聞いたとき、俺は勝利を確信した。
「瑠璃花、君は最高だ。その家を担保にすれば、俺たちは文字通り世界の頂点に立てる」
瑠璃花は俺の言葉を信じ、俺にすべてを捧げることを約束した。
彼女は旭のことを「金だけのつまらない男」と嘲笑い、俺との新しい生活を夢見ていた。
俺もまた、彼女という「金の卵を産むガチョウ」を手に入れた幸運を祝った。
そして、運命の記念日パーティー。
俺は、知人のつてで(実際にはNと名乗る投資家からの紹介で)予約した、恵比寿の最高級ホテルの大宴会場にいた。
周囲には、俺を「若き天才」と崇める取り巻きたちが集まっている。
瑠璃花は俺の隣で、この世で最も美しい花嫁のように微笑んでいた。
「見て、凱旋さん。十文字が来たわよ。……あんな場違いな場所に、よく来られたものね」
瑠璃花が指差した先には、確かに十文字旭がいた。
だが、俺はその姿を見て、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われた。
そこにいたのは、瑠璃花から聞いていた「冴えないエンジニア」ではなかった。
圧倒的な品格。周囲を威圧するような、冷徹なまでの眼差し。
彼が歩くだけで、会場の空気そのものが凍りつくような錯覚を覚えた。
「……おい、瑠璃花。あいつ、本当にただのエンジニアなのか?」
「え、ええ……そうよ。ただの、パソコンオタクのはずなのに……」
瑠璃花の声も震えていた。
そして、彼が俺の前に立ち、その「正体」を明かした瞬間。
俺の作り上げた偽りの世界は、音を立てて崩壊した。
「皇凱旋さん。君が僕のダミーアカウント『N』に送ってきた事業計画書……なかなか読み応えがあったよ。特に、架空の売上を計上して投資家を欺く手口は、もはや犯罪の域だね」
旭の口から漏れた言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
ダミーアカウント? N?
じゃあ、俺が最後の希望だと思っていたあの出資話は……。
「……貴様、まさか、最初から……」
「最初から、君のことは調べていたよ。瑠璃花に近づいた動機も、君の会社の杜撰な財務状況も。君が瑠璃花に贈っていたプレゼントの多くが、僕の関連会社が運営するレンタルサービスのものだったことにも、気づいていなかったのかい?」
旭は、俺が瑠璃花を騙していると思っていたその手口が、すべて彼の管理下で行われていたことを淡々と告げた。
俺が「寝取った」と思っていた瑠璃花は、ただの「監視対象」でしかなかったのだ。
「そんな……嘘だ……! 俺は、俺は天才実業家だぞ! 貴様のような陰気な男に負けるはずが……!」
俺は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
周囲にいた取り巻きたちが、一斉に俺から離れていく。
彼らの瞳には、もはや崇拝の念など微塵もなかった。ただ、道端に転がるゴミを見るような、冷酷な光。
その後のことは、悪夢のようだった。
会場に踏み込んできたのは、俺が金を借りていた業者たち。
「皇さん、話が違うじゃねえか。確実な担保があるって言ったよなあ?」
「待ってくれ! 瑠璃花! お前が払うと言っただろう! 十文字の資産があるって!」
俺は必死に瑠璃花を指差した。だが、彼女もまた、地べたに座り込んで絶叫していた。
彼女のSNSアカウントが消滅し、彼女自身が旭から「剥奪」されたことを理解した彼女に、俺を助ける余裕などあるはずもなかった。
「……連れて行け」
闇金業者の低い声と共に、俺の腕が強引に掴まれた。
俺は豪華な絨毯の上を引きずられ、華やかな光に包まれた会場から、夜の闇へと放り出された。
それから数ヶ月。
俺は今、地図にも載っていないような異国の地の、鉱山街にいた。
「おい! 87番! 手を休めるな!」
乾いた怒声と共に、背中に鋭い痛みが走る。
泥に汚れ、ボロボロになったシャツ。かつてロレックスを巻いていた手首には、今は重い鎖が繋がれている。
俺は、旭が仕掛けた「負債の連鎖」から逃げることができなかった。
俺が「融資の確証」として偽造した書類の数々。それがすべて裏目に出て、俺は多額の詐欺罪と賠償責任を背負わされた。
警察に捕まるよりも恐ろしい場所――法も正義も届かない「債務者収容所」に、俺は売り飛ばされたのだ。
「……くそ……どうして、俺がこんな目に……」
俺は地面を這い、重い石を運ぶ。
指先は割れ、爪は剥がれ、かつての「成功者」の面影は微塵もない。
毎日、わずかな水と硬いパンだけで、命を繋ぎ止めるだけの重労働。
ここでは、俺の名前を知る者さえいない。ただの「87番」という記号。
夜、冷たいコンクリートの上で横たわると、いつもあの時の旭の瞳を思い出す。
あの男は、最初からすべてを知っていた。
俺が瑠璃花を寝取ったことも、俺が金を騙し取ろうとしていたことも。
それどころか、俺が調子に乗って破滅への道を突き進むように、そっと背中を押していたのだ。
「……怪物だ……」
俺は震える声で呟いた。
十文字旭。あいつは、ただのエンジニアなんかじゃなかった。
人の欲望を、見栄を、愚かさを、完璧にコントロールして人生という名の「作品」を解体する、最悪のプロフェッショナルだったのだ。
俺は、瑠璃花という女を寝取ったつもりでいた。
だが実際は、旭が廃棄処分にしようとしていた「欠陥品」を、自分から進んで押し付けられただけに過ぎなかった。
「はは……あははは……っ!」
俺の乾いた笑い声が、収容所の暗い天井に虚しく響く。
瑠璃花はどうなっただろうか。
おそらく、彼女もまた、俺とは違う形の地獄に落ちているはずだ。
旭という「土台」を失った彼女が、この残酷な現実の世界で一人で生きていけるはずがない。
ふと、泥に汚れた自分の手を見た。
そこには、かつての栄光の証であったロレックスの代わりに、消えない火傷の痕と、惨めなタトゥーが刻まれている。
『虚飾の王』。
それが、旭が俺に最後に贈った、本物の肩書きだったのかもしれない。
「87番! まだ寝る時間じゃないぞ! 立て!」
看守のブーツが俺の脇腹を蹴り上げる。
俺は痛みに悶えながら、再び泥にまみれた地面に手をついた。
もはや、逃げる力も、死ぬ勇気もない。
俺に許されているのは、これから死ぬまで続く、この終わりのない「因果応報」を味わい続けることだけだ。
「……旭……っ、助けてくれ……殺してくれ……っ!」
俺の叫びは、誰にも届かない。
地上四十五階の、あの宝石のような夜景は。
もう二度と、この瞳に映ることはないのだから。




