第四話 どん底の果て、もう遅すぎる後悔
冷たい雨が、都心の喧騒を塗りつぶすように降り続いていた。
かつて神代瑠璃花が住んでいた港区のタワーマンションから、電車で一時間以上。築四十年を超える木造アパートの一室には、カビの匂いと、絶望の澱みが充満していた。
「……嘘。こんなの、嘘よ」
瑠璃花は、ひび割れた姿見の前に立ち、自分の顔を凝視して呟いた。
そこにあるのは、かつて数十万人のフォロワーを熱狂させた「カリスマ・インフルエンサー」の面影など微塵もない、一人の惨めな女の姿だった。
肌は荒れ、くすみ、目の下には深い隈が刻まれている。
旭が手配していた特注の美容液が尽き、一回数万円もするフェイシャルエステから出入り禁止を食らった彼女の美貌は、驚くべき速さで崩壊していった。彼女の美しさは、天然の資質ではなく、旭という天才プロデューサーが多額の資金と最新の技術を投下して維持していた「高価な維持管理物」に過ぎなかったのだ。
「どうして……どうして誰も電話に出てくれないの……」
彼女は震える手で、何度もスマホの画面をタップする。
かつて「親友」と呼び合い、連日のように高級ランチを共にしていたモデル仲間たち。彼女を持ち上げていた広告代理店の担当者。そして、何より――。
「凱旋さん、助けて……あなただけは、味方だって言ったじゃない……」
だが、皇凱旋からの連絡は途絶えたままだ。
いや、彼が今どこにいるかは、テレビのニュースが教えてくれた。投資詐欺と粉飾決算の容疑で指名手配され、追い詰められた彼は、今はもうこの国のどこにも居場所はないだろう。旭が仕掛けた「融資という名の罠」によって、彼は取り返しのつかない多額の負債を闇の勢力からも背負わされた。
彼が今、どこかの地下工事現場で人間としての尊厳を奪われながら働かされているのか、あるいは異国の地で逃亡生活を送っているのか。いずれにせよ、彼が瑠璃花を救いに来ることは二度とない。
「……旭。旭なら、まだ」
瑠璃花は、最後の希望を抱いて、連絡先リストの最下部にあった「十文字旭」の名をタップした。
何度も着信拒否をされ、無視され続けてきた番号。だが、今の彼女にはこれしか残っていなかった。
プルルル……、プルルル……。
数回のコールの後、カチリと音がして通話が繋がった。
「あ、旭!? 旭なのね! お願い、助けて! 私、間違ってたの! あなたがいないとダメなの! あのマンションに戻りたい……あの時のように、また私をプロデュースして!」
瑠璃花は縋り付くように受話器に叫んだ。涙が溢れ、泥のように崩れたメイクがさらに彼女の顔を醜く歪ませる。
しかし、受話器から返ってきたのは、男の声ではなく、聞き覚えのある無機質な少女の声だった。
『……お久しぶりですね、神代瑠璃花さん。いえ、今はもう、ただの神代さんですか』
「な……凪沙さん? どうしてあなたが旭の電話を?」
『旭さんは今、非常に多忙な身です。あなたのような「過去の失敗作」に割く時間は一秒もありません。この電話も、私が独断で受けたものです。二度と掛け直してこないよう、最後通牒を突きつけるために』
凪沙の冷徹な声が、瑠璃花の心臓を凍りつかせる。
「そんな……旭に代わって! 旭なら、私を許してくれるはずよ! あんなに優しくしてくれたんだもの!」
『優しさ? 勘違いしないでください。あれは投資であり、管理業務です。旭さんは、自分が手掛けた作品がどれだけ市場価値を高めるかを楽しんでいたに過ぎない。あなたがその「価値」を自ら損ない、契約を違反した以上、回収されるのは当然の帰結です』
「でも、私はまだやれるわ! 顔だって、またエステに行けば元通りになるし……!」
『無理ですね。あなたの名前は、都内の主要な美容クリニック、セレクトショップ、そしてモデルエージェンシーの全ブラックリストに共有されています。「十文字旭の不興を買った女」を顧客にするバカは、この業界には一人もいません。それに、あなたのご両親から、絶縁状が届いていることもお忘れなく』
瑠璃花は絶句した。
実家の両親。旭が彼らに対し、瑠璃花の浮気の証拠だけでなく、彼女が旭の資産を横領しようとしていた詳細な資料を送りつけたことで、厳格だった父親は激怒し、彼女を勘当した。
「嘘よ……そんなの、全部旭が仕組んだことじゃない! 私が、私が何をしたって言うのよ!」
『あなたは、自分が何によって生かされていたかを知ろうともせず、土台を壊して踊ろうとした。それがあなたの罪です。……ああ、それから。皇凱旋さんの近況、知りたいですか?』
凪沙が淡々と告げる。
『彼は昨日、東南アジアの拠点で身柄を拘束されました。彼があなたを担保に借りていた違法な借金の一部は、連帯保証人としてあなたの名前が記載されています。……もちろん、あなたが勝手に判を押したものではなく、彼が勝手に書いたものですが。今のあなたにそれを証明する弁護士を雇う金は、ありますか?』
「……っ!?」
『地獄へようこそ、瑠璃花さん。あなたが欲しがった「本物の刺激」を、これからの人生でたっぷりと味わってください。……さようなら』
ツーツー、という無慈悲な切断音が、狭い部屋に響く。
瑠璃花は力なく崩れ落ち、スマホを畳の上に落とした。
画面には、かつて自分が投稿した、煌びやかなパーティーでの自撮り写真が映っていた。その中に写る自分は、今の自分とは別人のように輝いている。
だが、その輝きを与えていた光の源は、もうどこにもいなかった。
一方その頃。
港区にある、会員制のシークレット・ラウンジ。
厚い防音壁に囲まれたその場所で、十文字旭は新しい依頼人と向かい合っていた。
「素晴らしいわ、十文字さん。私の望んでいた『完璧な淑女』としてのポートフォリオ。これなら、あの保守的な一族も私を認めざるを得ないでしょうね」
旭の正面に座るのは、日本屈指の財閥の令嬢でありながら、一族のしがらみから抜け出し、自らの力で新進気鋭のファッションブランドを立ち上げた才女――一条院美琴。
彼女は瑠璃花とは違い、本物の教養と、揺るぎない芯を持った女性だった。
「光栄です、一条院さん。僕はただ、あなたが本来持っている輝きを、最も効果的な角度から照らす手伝いをしたに過ぎません。……ですが、ここからが本番です。一族の長老たちを納得させるには、あと一歩、決定的な『エピソード』が必要です」
旭は、瑠璃花を相手にしていた時とは全く違う、対等なビジネスパートナーとしての顔を見せていた。
眼鏡の奥の瞳は鋭く、かつてのような「地味な男」の演技は微塵もない。
「信頼しているわ。……ところで、以前あなたの隣にいた『彼女』はどうしたの? 確か、面白いおもちゃにしていると言っていたけれど」
美琴がシャンパングラスを傾けながら、面白そうに尋ねた。
旭はわずかに口角を上げ、窓の外に広がる東京の夜景に目をやった。
「壊れたので、廃棄しました。素材の限界を考えずに、不相応な夢を見た末路です。……プロデューサーとしては、少し惜しいことをしましたが。おかげで、もっと質の高い素材の見分け方が分かるようになりました」
「ふふ、冷酷なのね。でも、そうでなくては。私の人生を預ける相手としては、そのくらい徹底している方が安心できるわ」
美琴は旭の隣に座り、その肩にそっと手を置いた。
それは、瑠璃花がしていたような「媚び」や「依存」ではなく、互いの実力を認め合った者同士の、対等な誘惑だった。
「今夜は、これから新しいプロジェクトの祝杯を挙げましょう? 廃棄したおもちゃのことは忘れて、本物の贅沢を教えてあげるわ」
「……お供しましょう。それが、今の僕の仕事ですから」
旭は美琴をエスコートし、ラウンジを後にした。
彼の足元には、一流の職人が仕立てた最高級の革靴。纏っているのは、世界のVIPを顧客に持つテーラーの特注品だ。
彼が瑠璃花に与えていた贅沢など、彼が本来持っている世界の一部に過ぎなかった。
数日後。
瑠璃花は、駅前の大きな電光掲示板を見上げて立ち尽くしていた。
そこには、新しいファッションブランドの広告が映し出されていた。
『本物を知る、あなたへ。』
そのキャッチコピーと共に画面に現れたのは、息を呑むほど美しく、気高い一条院美琴の姿。そして、彼女を陰で支える「若きパートナー」として、一瞬だけ映り込んだ、見違えるほど洗練された旭の姿だった。
「あ……ああ……っ」
瑠璃花は声を漏らした。
その広告は、かつて自分が夢見ていた「最高の世界」そのものだった。
だが、そこにいるのは自分ではない。
旭が選んだのは、自分を裏切るような浅薄な女ではなく、共に高みを目指せる本物のパートナーだった。
「私が……私があそこにいたはずなのに……っ!」
彼女が叫んでも、通り過ぎる人々は誰も彼女を見向きもしない。
彼女が着ている服は汚れ、かつて自分に注がれていた羨望の眼差しは、今や軽蔑と無関心に変わっている。
彼女がSNSでどれだけ叫んでも、凍結されたアカウントは二度と蘇らない。
彼女がどれだけ「私は十文字旭の婚約者だったの!」と訴えても、それを信じる者は誰もいない。
彼女にはもう、何も残っていなかった。
借金取りの影に怯え、荒れ果てた肌を隠しながら、日雇いの仕事でその日暮らしを続ける毎日。
それが、彼女が「自分は特別だ」と勘違いした代償だった。
「旭……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
冷たい雨の中、地べたに座り込み、瑠璃花は泣き叫び続けた。
だが、その声は雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
一方で、旭は新しいクライアントと共に、さらなる高みへと登り続けていた。
彼の人生において、神代瑠璃花という存在は、もう数ある「失敗作」のアーカイブの一つに過ぎない。
彼の手掛ける「人生」は、これからも多くの人々を魅了し、そして愚かな者を破滅へと導いていく。
偽りの楽園を作り上げ、それを一瞬で崩壊させる死神であり、創造主。
それが、十文字旭という男の、本物の姿だった。




