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第三話 崩壊の序曲、すべては「借り物」だった

東京・恵比寿。歴史ある煉瓦造りの外観が特徴的な超高級ホテルの大宴会場は、今夜、眩いばかりの光に包まれていた。

クリスタルのシャンデリアが天井で煌めき、床にはふかふかの真紅の絨毯が敷き詰められている。給仕たちが銀のトレイに乗せたシャンパングラスを運び、着飾った男女が優雅な音楽に合わせて談笑に興じている。


「見て、凱旋さん。みんなが私を見てるわ。……当然よね、今夜の主役は私なんだから」


神代瑠璃花は、背中が大きく開いた純白のドレスを翻し、満足げに会場を見渡していた。

その胸元には、皇凱旋から贈られたというダイヤモンドのネックレスが輝いている。もっとも、それは皇が旭の資産を奪うための「撒き餌」として、高利貸しから借りた金で用意した代物だということを、彼女はまだ知らない。


「ああ、美しいよ、瑠璃花。今夜、俺たちの新しい門出を祝うのに相応しい場所だ。君はこの国のトップ・インフルエンサーとして、俺はそれを支える稀代の実業家として、世界に名を轟かせることになる」


皇は得意満面で瑠璃花の腰を引き寄せた。

彼らの周囲には、彼らが「成功者」だと思い込んでいる取り巻きたちが群がっている。だが、その取り巻きたちの正体は、旭が雇ったエキストラや、旭に恩義を感じているクライアントの部下たちだ。

彼らは完璧な演技で、瑠璃花と皇を「時代の主役」であるかのように持ち上げていた。


「ところで、瑠璃花。例の地味な婚約者はどうしたんだ? まさか、この場所にあの冴えない顔を出すつもりじゃないだろうな」


皇の嘲笑混じりの問いに、瑠璃花は鼻で笑った。


「来させてあげたわよ、最後にね。彼にはたっぷりお礼を言わなきゃ。三年間、私のための『ATM』としてよく頑張ってくれたって。入籍予定のこの日に、まさか捨てられるなんて思ってもいないでしょうね。あんな地味な男が、私みたいな特別な女と結婚できるなんて夢を見ていたのが間違いなのよ」


二人は周囲に聞こえるような声で笑い合う。

瑠璃花は手元のスマホをチェックした。自分の投稿にどれだけの「いいね」が付いているかを確認するためだ。だが、彼女の眉がわずかに潜められた。


「……おかしいわ。電波が悪いのかな。SNSの画面が更新されないの」

「気にするな、瑠璃花。今はパーティーを楽しもう。ほら、あそこにいるのはIT業界の重鎮だ。挨拶に行こうじゃないか」


皇に促され、瑠璃花はスマホをバッグに仕舞った。

その時、会場の入り口が大きく開かれた。

今まで会場に流れていた柔らかなジャズが止まり、招待客たちの視線が一箇所に集まる。


そこに立っていたのは、一人の男だった。

仕立ての良い漆黒のタキシード。無駄のないしなやかな肢体。眼鏡を外し、整えられた前髪の隙間から覗くその瞳は、凍てつくような冷たさと、周囲を圧倒する知性を湛えている。

冴えないエンジニアとしての影はどこにもない。そこには、人々の運命を操る絶対的な支配者としてのオーラを纏った男がいた。


「……旭?」


瑠璃花が呆然と呟いた。

彼女が知っている十文字旭は、いつも猫背気味で、安物のシャツを着て、パソコンの画面ばかりを見ている男だったはずだ。

だが、今目の前にいる男は、この華やかな会場の誰よりも気高く、圧倒的な存在感を放っている。


「遅くなってすまないね、瑠璃花。……それから、皇凱旋さん。初めまして、かな」


旭がゆっくりと歩みを進める。その一歩ごとに、周囲の招待客――本物の富裕層や業界の重鎮たちが、旭に向かって恭しく一礼していった。


「な、何よ、旭……その格好。それに、どうしてみんながあなたに挨拶してるの? あなた、ただのエンジニアでしょう?」


瑠璃花の声が震えている。彼女の理解を超えた事態が、目の前で次々と起こっていた。

旭は彼女の問いには答えず、皇の前で足を止めた。


「皇さん。君が僕の婚約者を使って、僕の資産を担保に融資を受けようと画策していた話……とても興味深く聞かせてもらったよ」

「なっ……何を言っている! 貴様のような端男に何が分かる!」


皇が顔を真っ赤にして怒鳴る。だが、その足はわずかに後ろへ引いていた。

旭は懐から一通の封筒を取り出し、皇の胸に叩きつけるように差し出した。


「君が『融資の確証』として取引先に提出した書類の写しだ。残念ながら、その融資元となっている投資家のアカウントは、僕が管理しているダミーだよ。つまり、君が今夜までに費やした一億二千万を超える負債には、一円の担保も存在しないということだ」

「な、何だと……?」

「それだけじゃない。君が経営しているという会社のオフィス、あれも僕の関連会社が所有している物件だ。先ほど、不法占拠および賃料滞納につき、強制執行の手続きを完了した。君の荷物はすべて路端に放り出されているはずだよ」


皇の顔から血の気が引いていく。

彼は震える手で封筒を開け、中の書類を確認した。そこには、彼が今まで隠し通してきた粉飾決算の証拠と、多額の借用書、そして彼が瑠璃花に贈ったネックレスが「模造品」であることを証明する鑑定書まで入っていた。


「凱旋さん、これどういうこと……? 私に贈ってくれたネックレスが偽物? あなた、成功者じゃなかったの!?」


瑠璃花が皇の腕を掴んで揺さぶる。だが、皇は彼女を突き飛ばした。


「うるさい! この女が勝手に『自分の婚約者は金持ちだ』なんて吹聴するから、俺もその気になったんだ! 全部お前のせいだ!」

「ひどい……! 旭、助けて! この男、私を騙してたのよ!」


瑠璃花が泣きつきながら旭の足元に縋り付こうとする。

だが、旭はその手を冷たく払い除けた。


「助ける? どうして僕が、僕を裏切って他の男と入籍しようとしていた人間を助けなければならないんだい?」

「それは……だって、私、騙されてただけで、本当は旭のことを愛してるもの! 入籍を延期したのも、仕事のためを思って……」

「まだ嘘を重ねるのか。……凪沙、準備はいいかい?」


旭が耳元のインカムに触れると、会場の巨大なスクリーンに映像が映し出された。

それは、第一話で二人が密会していた時の映像。旭を「ただのATM」と呼び、笑いものにしていた瑠璃花の姿が、会場中の招待客の前に晒される。


「嫌……消して! お願い、消して!」


瑠璃花が絶叫する。

だが、追い打ちはそれだけでは終わらなかった。

彼女のスマホに、怒涛の通知が届き始める。


「あ……私のSNSが……アカウントがない!? フォロワーも、投稿も、全部消えてる!」

「当然だよ。君のアカウントのフォロワーの九割は、僕が購入して与えたダミーだ。僕がシステムを停止すれば、君の数字なんて砂の城のように消えてなくなる。君が投稿していた豪華な生活も、すべて僕が用意した舞台装置の上での撮影だった。君個人の実力で手に入れたものなんて、何一つ存在しない」


旭の言葉は、冷徹な刃となって瑠璃花のプライドを切り裂いていく。


「君が着ているそのドレスも、レンタル料が未払いのままだ。君のカードはすでに利用停止になっている。……ああ、忘れていたよ。君がこの三年間、僕の金で受けてきた高級エステや美容医療。あれもすべて、僕の関連会社が福利厚生として提供していたものだ。今日この瞬間から、君はすべての施設からブラックリスト入り。君が『美貌』を維持するための術は、もう何もない」


瑠璃花は自分の顔を両手で覆った。

彼女の「武器」であった美しささえも、旭が作り上げた虚像の一部に過ぎなかったことを突きつけられたのだ。


「そんな……嘘よ、嘘……。私、インフルエンサーなのよ? みんなに憧れられる特別な存在なのよ!」

「特別な存在、か。……君はただの、中身のない操り人形だったんだよ、瑠璃花。僕というプロデューサーが糸を切った瞬間、君はただの、何の価値もない女に戻る」


その時、会場に数人の男たちが踏み込んできた。警察ではない。皇が金を借りていた、闇金業者の取り立て屋たちだ。


「皇凱旋さん。約束の期限、過ぎてますよ。担保もなしに一億以上踏み倒そうなんて、いい度胸してますねえ」

「ひっ……助けてくれ! 俺じゃない、この女が払うと言ったんだ! この女のカードを使えば……!」


皇は必死に瑠璃花を指差すが、業者は冷たく笑う。


「そのカード、もう止まってるんだってなあ。十億円の家が手に入るなんて嘘までついて……。おい、連れて行け。体で払ってもらうしかねえな」

「やめろ! 離せ! 瑠璃花、お前のせいだ! お前があんな嘘を吐くから!」


皇は無様に引きずられながら、会場の外へと連れ去られていった。

残されたのは、煌びやかなパーティー会場の中央で、地べたに座り込む瑠璃花だけだ。


招待客たちの視線は、もはや彼女を「時代の寵児」としては見ていない。

汚物を見るような、あるいは道端の石ころを眺めるような、無関心で冷酷な眼差し。


「旭……お願い、捨てないで。私、何でもするから。今まで通り、あなたの隣にいさせて……」


瑠璃花が這いつくばって旭の靴に手を伸ばす。

だが、旭はその手を踏みつけることさえせず、ただ静かに一歩引いた。


「君に与える『人生』は、もうすべて使い果たしたよ、瑠璃花。……それから、この会場の費用、そして君が今着ているドレスの損害賠償。すべて君個人の債務として請求させてもらう。君の親族にも、君がしでかした不貞と横領の証拠はすべて送ってある」

「そんな……お父さんたちまで……」

「さようなら、瑠璃花。君が望んだ『本物の世界』で、精一杯生きていくといい」


旭は背を向け、出口へと歩き出した。

背後で、瑠璃花の絶望に満ちた叫び声が響き渡る。

だが、その声も、ホテルの重厚な扉が閉まると同時に、完璧に遮断された。


会場の外。夜の冷たい空気が、旭の頬を撫でる。

待機していた黒塗りのセダンから、凪沙が降りてきた。


「お疲れ様でした、旭さん。完璧な『クランクアップ』でしたね」

「ああ。……少し、疲れかな」


旭はネクタイを少し緩め、夜空を見上げた。

復讐が終わっても、心に爽快感などなかった。あるのは、自分が三年間かけて作り上げた作品を、自らの手で粉々に砕いた後の、虚無感だけだ。


「旭さん、次の仕事の依頼が入っています。今度は、シリコンバレーの新進気鋭の女性経営者から。自分の『愛されたい』という欲望を、完璧な演出で満たしてほしいそうです」

「……また、虚飾の人生を作るのか」

「それが、あなたの仕事でしょう?」


凪沙が少しだけ口角を上げた。

旭は苦笑し、車の後部座席に乗り込んだ。


「そうだね。……行こうか。今度は、もう少しマシな結末を用意してあげたいな」


車は静かに走り出し、夜の闇へと溶け込んでいく。

その一方で、煌びやかなホテルのロビーでは、一人の女が警備員によって無慈悲に外へと放り出されていた。


ドレスは汚れ、メイクは涙で崩れ、誰にも振り返られない、ただの女。

神代瑠璃花。

彼女の「最悪のハッピーエンド」は、まだ始まったばかりだった。

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