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第二話 毒された楽園、加速する勘違い

タワーマンションの静かな朝。かつては心地よいと感じていた朝の光も、今の俺には舞台を照らすスポットライトのように無機質に感じられる。

リビングのソファに座り、俺はわざとらしく分厚い資料をテーブルに広げていた。それは、都内でも指折りの超高級住宅街に建設予定の、一戸建てのパンフレットだ。敷地面積は数百坪、プール付きの邸宅。価格は十億円を軽く超える。


「あら、旭。何見てるの? そんな大きな家……」


寝室から出てきた瑠璃花が、コーヒーを淹れようとして足を止めた。彼女の視線がパンフレットの数字に吸い寄せられる。その瞳の奥に、隠しきれない強欲の火が灯るのを俺は見逃さなかった。


「ああ、これかい? 実はね、僕が裏で関わっていた大きなプロジェクトがようやく形になってね。クライアントから特別な成功報酬が出る予定なんだ。それで、今のマンションも手狭になってきたし、記念日に合わせて新しい住まいを検討しようかと思ってさ」


俺がそう告げると、瑠璃花は一瞬、息を呑んだ。彼女は今、俺を捨てて皇凱旋という「新しい成功者」に乗り換えようとしている。しかし、俺が提示した「十億円の家」という餌は、彼女の計算を狂わせるに十分なインパクトがあった。


「十……十億? 旭、そんなに稼いでいたの? 普段は全然そんな素振り見せないのに」

「僕は目立つのが好きじゃないからね。でも、瑠璃花には最高の環境を用意してあげたい。この家なら、君のインフルエンサーとしての撮影スタジオも作れるし、もっとハイエンドな層にアピールできるだろう?」


俺が微笑むと、瑠璃花は動揺を隠すように髪をかき上げた。彼女の脳内では今、猛烈な勢いで算盤が弾かれているはずだ。

『地味な旭が、実はこれほどまでの資産を持っていたなんて。凱旋さんと一緒になるのは決めてるけど、この家を一度手に入れてから、財産分与で半分奪って別れたほうが得じゃないかしら?』

彼女の醜い思考回路が、手に取るように分かる。


「すごいわ、旭。私、感動しちゃった。やっぱり旭は私の自慢の婚約者ね。パーティーの日、入籍を延期しようだなんて言ってごめんなさい。あの話は、もう一度考え直してもいいかも」


彼女は俺の隣に座り、これ見よがしに腕を絡めてきた。つい昨日の夜、別の男の車で愛を囁いていた女と同じ人間だとは思えないほどの、見事な手のひら返しだ。

その肌の感触も、鼻を突く香水の匂いも、今の俺には吐き気を催させるものでしかなかった。だが、俺は最高のプロデューサーとして、優しい微笑みを崩さない。


「いいんだよ、瑠璃花。君が輝いてくれることが、僕の幸せだからね。パーティー当日は、僕が手配した特別な車を向かわせるよ。君はただ、世界で一番美しい姿で待っていてくれればいい」


彼女が浮き足立った足取りでバスルームへ向かったのを確認し、俺は耳に仕込んだ超小型のインカムに触れた。


「凪沙、聞いたかい? 魚が面白いように餌に食いついたよ」

「はい、すべて傍受しています。本当に……愚かな女性ですね。あんな分かりやすい餌に、あそこまで露骨に反応するなんて。AIでももう少し複雑な判断をしますよ」


凪沙の冷淡な声が心地いい。


「皇凱旋の方はどうだい?」

「彼も限界が近いようです。昨夜、闇金まがいの業者から追加の融資を断られた形跡があります。そこで、こちらで用意した『謎の投資家』のダミーアカウントから接触を図りました。彼には、数億円規模の出資を餌に、ある条件を提示しています」

「条件?」

「『一等地の不動産を所有している、あるいは所有予定である確証を見せること』です。彼は今、瑠璃花さんを説得して、あなたの資産を担保に入れさせようと必死になるはずですよ」


思わず、口元が歪んだ。

二人は互いに愛し合っているつもりなのだろうが、その本質は「相手の背後にある金」を奪い合おうとする獣の争いだ。瑠璃花は俺の資産を狙い、皇は瑠璃花を通して俺の資産を食い潰そうとしている。

共食いの準備は、整いつつあった。


数時間後、瑠璃花は「撮影があるから」と嘘を吐いて家を出た。

向かう先は分かっている。皇凱旋の事務所だ。俺は凪沙がハッキングした皇の事務所の隠しカメラ映像を、タブレットでリアルタイムに確認する。


「ねえ、凱旋さん! 大変よ、旭が十億円の家を買うって言い出したわ!」


映像の中の瑠璃花は、俺の前で見せていた上品な態度をかなぐり捨て、興奮した様子で皇に詰め寄っていた。


「十億だと!? あいつ、そんなに溜め込んでいたのか。……瑠璃花、これはチャンスだ。その家が成約する前に、あるいは成約した直後に、共有名義にするか、あるいは君個人に贈与させるように仕向けろ」

「分かってるわ。でも、そうしたら凱旋さんの事業はどうなるの? 私、早くあなたと結婚して、本物のセレブになりたいんだけど」


皇は瑠璃花の肩を抱き、耳元で甘い言葉を囁く。


「当たり前だろう。その家を担保にすれば、俺の会社に巨額の融資が降りる。そうすれば俺は世界的な実業家だ。あんな冴えないエンジニアとは比較にならない、最高の生活を約束するよ。瑠璃花、君は俺の女神だ」


皇の言葉に、瑠璃花はうっとりと目を細める。彼が嘘を吐いていることにも、彼の会社が実態のないペーパーカンパニーであることにも、彼女は気づかない。いや、気づきたくないのだろう。

彼女にとっての皇凱旋は、自分の欲望を正当化し、より高いステージへ連れて行ってくれる「理想の王子様」でなければならないからだ。


「……ふふ、あははは!」


俺はリビングで一人、声を上げて笑った。

滑稽すぎて涙が出そうだ。

彼女が信じているその「最高の生活」も、皇が企んでいる「巨額の融資」も。すべては俺がデザインした、出口のない迷路だというのに。


「旭さん、瑠璃花さんのSNSの数値、ピークに持っていきました」


凪沙からの報告が入る。

俺は瑠璃花のスマホの制御を奪い、彼女が投稿する写真に大量のアドネットワークを通じて人工的な「いいね」と「称賛のコメント」を流し込んでいた。

今の彼女のタイムラインは、世界中が彼女を称え、彼女こそが時代の象徴であるかのような錯覚を起こさせるように操作されている。


『瑠璃花様、美しすぎます!』

『次のパーティー、楽しみにしてます!』

『憧れの生活、私もいつか……』


そんな空虚な言葉の羅列を、瑠璃花は自分の「実力」だと信じ込んでいる。

彼女は今、全能感に満たされているはずだ。金も、名声も、新しい恋人も。すべてが自分の思い通りに動いている。

だが、それは俺が彼女の視界を塞ぎ、見せたいものだけを見せているからに過ぎない。


その日の夜。瑠璃花は上機嫌で帰宅した。

彼女の手には、見たこともない高級ブランドの紙袋がいくつも握られていた。


「あら、旭。まだ起きてたの? これね、凱旋……じゃなくて、クライアントの方にプレゼントしてもらったの。私に似合うからって」


彼女が見せびらかしたのは、数百万円はするであろうダイヤモンドのネックレスだった。おそらく皇が、俺の資産を手に入れるための「先行投資」として、どこからか借金をして買ってきたものだろう。

あるいは、これも偽物かもしれない。今の俺には、それが本物かどうかなんてどうでもよかった。


「きれいだね、瑠璃花。よく似合っているよ」

「でしょ? 旭も、たまにはこういう気の利いたプレゼントをしてくれればいいのに。……あ、でも、十億円の家を買ってくれるんだもんね。楽しみにしてるわよ?」


彼女は俺の頬に軽くキスをして、足早にクローゼットへと消えた。

彼女の足元が、すでに崩れ始めていることにも気づかずに。


翌日から、俺は「剥奪」の準備を加速させた。

まず、彼女が使用しているブラックカードの限度額を、一時的に「無限」に見えるよう設定を変更した。これは銀行のシステムをハッキングしたわけではない。カード会社にコネクションを持つ俺の顧客を通じて、特別な『信用枠』を一時的に付与させたのだ。もちろん、その支払いの責任はすべて、彼女個人に帰属するように契約を書き換えてある。


瑠璃花は舞い上がった。

自分がどれだけ買い物をしても、カードが止まらない。自分は選ばれた特別な存在なのだと。そう確信した彼女は、皇を連れて高級ブティックを巡り、まるで紙屑のように金を使っていく。

皇もまた、彼女のカードが「無限」に使えるのを見て、彼女の背後にいる俺の資産が底なしであることを確信し、さらに強気な投資(という名の浪費)を繰り返す。


「凪沙、現在の彼らの負債額は?」

「瑠璃花さんが三千五百万。皇凱旋が、自社名義の借入を含めて一億二千万を突破しました。すべて実態のない消費に費やされています。彼らが『返済できる』と信じている根拠は、旭さんが提示した十億円の家と、これから入るはずの虚偽の融資話だけです」

「十分だ。パーティーの夜、すべてが精算される」


俺はデスクの引き出しから、一通の手紙を取り出した。

それは、彼女と付き合い始めたばかりの頃、彼女が俺に宛てた手紙だ。

『旭、私を選んでくれてありがとう。あなたと一緒に、一歩ずつ歩んでいきたい』

当時はまだ、純粋な野心を持っていたはずの彼女。

いつから変わってしまったのか。それとも、これが彼女の本来の姿だったのか。


俺はその手紙を、シュレッダーにかけた。

微塵切りにされていく紙屑を眺めながら、俺の心にあるのは、やり遂げたプロデューサーとしての達成感だけだった。


数日後。記念日当日。

瑠璃花は、皇が用意したという(実際には皇が俺の資産を当てにしてレンタルした)純白のドレスに身を包んでいた。


「旭、先にパーティー会場に行ってるわね。あなたも遅れないでよ? ちゃんとそれなりの格好をしてくるのよ。私の婚約者なんだから、恥をかかせないで」


鏡に向かって紅を引きながら、彼女は一度も俺の目を見ようとはしなかった。

彼女にとって俺はもう、新しい人生への踏み台に過ぎない。


「ああ、分かっているよ。最高にドラマチックな夜にしよう」


俺が送り出した高級車に乗って、彼女は意気揚々と夜の街へ消えていった。

その後ろ姿を見送りながら、俺は凪沙に合図を送る。


「……始めようか」


その瞬間、世界中のサーバーに仕掛けられたプログラムが起動する。

彼女が三年かけて積み上げてきたSNSのアカウント。フォロワー数、いいね数、過去の投稿。そのすべてが、一瞬にして「不適切なコンテンツ」として凍結されていく。

彼女を「カリスマ」へと仕立て上げていた数々のウェブ記事も、提携していた企業との契約書も、すべてが「無効」へと書き換えられていく。


彼女のスマホに、最初の通知が届くのは、パーティー会場に到着した直後だろう。

最高の舞台で、最高の絶望を。

それが、俺が彼女に贈る最後のプロデュースだ。


俺は地味なスーツを脱ぎ捨て、特別に仕立てた漆黒のタキシードに身を包んだ。

眼鏡を外し、髪を整える。鏡の中に映るのは、冴えないシステムエンジニアではない。人々の人生を弄び、再構築する冷徹な支配者――『ライフ・プロデューサー』としての俺だ。


「旭さん、お車が到着しました」


凪沙の声が、今までになく弾んでいるように聞こえた。

俺は部屋の明かりをすべて消し、一度も振り返ることなく玄関を出た。


地上四十五階の聖域。

明日、この部屋に戻ってくる人間は、もう誰もいない。

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