第一話 偽りの婚約と、甘い裏切りの味
窓の外には、宝石をぶちまけたような東京の夜景が広がっている。地上四十五階。港区の一等地に建つこのタワーマンションの最上階階層は、選ばれた人間だけが住むことを許される聖域だ。
リビングの照明を落とし、わずかな電子音だけが響く静寂の中で、俺、十文字旭は手元のタブレット端末に映し出される映像を眺めていた。
「ねえ、凱旋さん。旭のことなんてどうでもいいじゃない。あんな地味で、毎日パソコンの前でカタカタしてるだけの男、私の引き立て役にすらならないわ」
画面の中で、艶やかに笑う女がいる。神代瑠璃花。俺の婚約者であり、三年前からこの部屋で同棲している恋人だ。
彼女が寄り添っているのは、皇凱旋と名乗る男。仕立ての良いスーツを崩して着こなし、自信に満ちた笑みを浮かべている。場所は俺が「仕事用」として契約している都内の別邸。防犯カメラの死角だと思い込んでいるようだが、この部屋のすべてのデバイスを管理しているのは俺だということを、彼女は忘れているらしい。
「はは、違いない。あんな冴えない男が君のような美人と婚約しているなんて、世の中のバグみたいなもんだ。瑠璃花、君にはもっと相応しいステージがある。俺と一緒に、本物の『上流』へ行こう。あんなATM代わりの男、適当に理由をつけて捨てればいい」
二人は高級なシャンパングラスを合わせ、睦まじく口づけを交わす。
普通なら、ここで怒りに震えて部屋を飛び出すか、あるいは絶望に打ちひしがれて涙を流す場面なのだろう。だが、俺の心は驚くほど静かだった。凪いだ海のように、一抹の波紋さえ立っていない。
「……なるほど。投資の対象としては、完全な失敗だったというわけか」
俺は独り言をこぼし、手元のグラスに入ったミネラルウォーターを一口飲んだ。
世間から見れば、俺はただの在宅システムエンジニアだ。地味な服装に、目立たない眼鏡。趣味も特になく、淡々と自宅で仕事をこなし、それなりの収入を得て、美しい婚約者を養っているだけの「つまらない男」。瑠璃花が俺をそう評価し、周囲に吹聴していることは知っていた。彼女はよく、「旭は安定してるけど、刺激が足りないのよね。私みたいなインフルエンサーを支えるには、ちょっと器が小さすぎるっていうか」と、夜な夜な女子会(という名の合コン)で零していたから。
しかし、彼女は決定的な勘違いをしている。
俺の本業は、システムエンジニアなどではない。特定の富裕層や資産家、あるいは急激に名を上げた成功者から依頼を受け、対象者のイメージを戦略的に構築し、文字通り「人生をプロデュース」する裏のエージェント――『ライフ・プロデューサー』。それが俺の真の姿だ。
瑠璃花の今の地位も、美貌も、そして彼女が自慢しているインフルエンサーとしての成功も。
すべては、俺が裏で糸を引き、膨大な資金と情報を投下して作り上げた「虚飾の作品」に過ぎない。
三年前、彼女はただの地方出身の受付嬢だった。
磨けば光る原石ではあったが、垢抜けず、自分を美しく見せる方法も知らなかった彼女を拾い上げたのは俺だ。彼女の骨格に合わせた黄金比メイクを提案し、一流の講師を雇って立ち居振る舞いを叩き込み、彼女がSNSに投稿する写真の一枚一枚にまで、人々の心理を扇動する計算を尽くした。
彼女が愛用している高級バッグも、肌のコンディションを完璧に整えるオーダーメイドの美容液も、すべて俺のコネクションと資金がなければ存在し得ないものだ。
「旭さん、お疲れ様です。データの同期、すべて完了しました」
タブレットのスピーカーから、無機質な少女の声が響いた。俺の部下であり、優秀な情報収集のスペシャリスト、玻璃凪沙だ。
「映像のバックアップ、および音声のテキスト化は終わっています。神代瑠璃花さんが使用しているSNSアカウントの裏側、提携している美容クリニックのカルテ、そして彼女が『自分専用』と信じ込んでいるプラチナカードの決済履歴。すべてこちらの制御下にあります。旭さんの合図一つで、彼女の『世界』は機能停止します」
「ありがとう、凪沙。でも、まだ早い。彼女にはもう少しだけ、自分が世界の主役であるという夢を見せてあげよう。人は、高みに登れば登るほど、足元が見えなくなるものだ。そして、最も高い場所から墜落した時の衝撃こそが、最高の教育になる」
「……相変わらず、性格が悪いですね、旭さんは」
凪沙の声に、わずかな皮肉が混じる。
性格が悪い、か。否定はしない。俺は彼女を愛していたつもりだった。だが、彼女が俺という存在を足蹴にし、俺が与えた「借り物の輝き」を自分の実力だと勘違いして他人を侮辱し始めたとき、愛情は急速に冷え切った。
今俺の胸にあるのは、壊れかけた不良品を処分する際の、事務的な冷徹さだけだ。
「明日の朝、彼女が帰宅した後のスケジュールは?」
「午前十一時に代官山のヘアサロン、十四時にアパレルブランドとのタイアップ撮影、夜は例の『間男』とディナーの予定です。ちなみに、そのディナーの店、旭さんの紹介で予約が入っていますよ」
「ふふ、皮肉なものだね。僕が用意したステージで、僕以外の男と愛を語り合うのか。……面白い。そのまま続けさせて」
俺は通信を切り、リビングの大きなソファに身を横たえた。
かつては、この部屋で彼女と笑い合ったこともあった。彼女が「旭のおかげで、私、自分に自信が持てるようになったよ」と言って抱きついてきたときの体温は、確かに本物だと思っていた。だが、彼女が手に入れた「自信」は、いつしか「傲慢」へと変質してしまった。
俺という土台があるからこそ、彼女という花は咲いていられる。土台を壊せばどうなるか、その想像力すら今の彼女には残っていない。
数時間後、夜明け間近の静寂を破り、玄関の電子錠が解除される音がした。
俺は寝室のベッドに入り、浅い眠りを装う。リビングを横切る、慎重だがどこか浮ついた足音。ドアの隙間から、夜の街の喧騒を吸い込んできたような香水の香りが漂う。それは、さっき映像で見た皇凱旋の車の中に漂っていたものと同じ、安っぽい甘さの混じった香りだ。
「ただいま、旭。まだ起きてる?」
瑠璃花が寝室のドアを少しだけ開けて、猫撫で声を出した。俺はわざとらしく目をこすり、上体を起こす。
「ん……おかえり、瑠璃花。遅かったね。仕事、大変だったのか?」
「ええ、もうクタクタ。急なタイアップの打ち合わせが長引いちゃって。クライアントがどうしても食事しながらって言うから、断れなくて。旭は先に寝てていいわよ。私、シャワー浴びてくるから」
嘘のつき方も、随分と杜撰になったものだ。
以前の彼女なら、もう少し完璧に演技をしていた。アリバイを補強するための資料を用意したり、俺に罪悪感を感じさせるような殊勝な態度を見せたりしていたはずだ。だが今の彼女は、俺を「騙す価値さえない格下の男」だと見なしている。その慢心が、言葉の端々から透けて見えた。
翌朝、ダイニングテーブルには、俺が用意した朝食が並んでいる。
産地直送のオーガニック野菜を使ったサラダに、焼き立てのクロワッサン。彼女の美肌を維持するために計算されたメニューだ。
瑠璃花は鏡の前で入念に肌を整え、俺が選んで買い与えた一本数万円もする美容液を、まるで水のように惜しみなく使っている。
「ねえ、旭。来月のことなんだけど、覚えてる?」
クロワッサンを小さくちぎり、不自然なほど上品な仕草で口に運びながら、瑠璃花が切り出した。
「来月? ああ、僕たちが付き合い始めて三周年の記念日だね。それと……同時に入籍しようって約束していた日だ」
「ええ、そう。そのことなんだけどね」
瑠璃花は一度言葉を切り、スマホの画面に目を落とした。皇凱旋からの連絡でもチェックしているのだろう。彼女の口元に、わずかな嘲笑が浮かぶのを俺は見逃さなかった。
「その日、実はすごく大きなビジネスのパーティーが入っちゃったの。私のインフルエンサーとしての活動を支援してくれる、投資家の方たちが主催するパーティーなんだけど。どうしても外せないのよね。だから、入籍の届け出は、少し延期してほしいなって」
入籍の延期。それは彼女にとって、俺を正式に捨てるための準備期間なのだろう。
あの皇という男と完全に繋がれる確信が持てるまで、俺という安全圏をキープしておきたい。その浅ましい魂胆が、手に取るように分かる。
「それは残念だね。二人でゆっくりお祝いしようと思っていたんだけど。……でも、瑠璃花の仕事が大事なのは分かっているよ。そのパーティー、僕も一緒に行ってもいいかな? 婚約者として、君を支えている人間を紹介してもらえると嬉しいんだけど」
俺がそう提案すると、瑠璃花は目に見えて嫌悪の表情を浮かべた。一瞬で顔を強張らせ、咳払いをする。
「あ、それはダメよ。だって、すごく格式高いパーティーなんだもの。参加するのは、起業家とか投資家とか、時代の最先端を走っている人たちばかり。旭みたいなエンジニアが来ても、話が合わなくて浮いちゃうと思うの。私のイメージにも関わるし……ね?」
『私のイメージにも関わる』。
それが、三年間寄り添ってきた婚約者に向ける言葉だろうか。
俺が作り上げたイメージのおかげで、今の彼女があるというのに。俺というプロデューサーを「汚点」のように扱う彼女の姿に、俺は心の中で静かに、最後通牒の判を押した。
「分かった。瑠璃花がそう言うなら、僕は控えておくよ。記念日のパーティー、成功するといいね。……あ、そうだ。その日に着ていくドレスはどうするんだい? 必要なら、僕の知り合いのデザイナーに頼んで、新作を用意させるけど」
「いいの、それは大丈夫。凱旋さん……あ、じゃなくて、主催者の方が最高の一着を用意してくれるって言ってるから。旭は心配しなくていいわ」
今、口を滑らせたな。皇凱旋。その名前を出すことを、彼女はもう隠しきれなくなっている。
自分はもう、俺のような地味な男が手の届かない場所にいる。そう信じ込んでいる彼女は、とても滑稽だった。
「そうか。主催者の方が用意してくれるなら安心だね。……あ、そうだ。瑠璃花、最近SNSのフォロワーが急に増えただろう? 案件の依頼も増えているみたいだし、調子が良さそうで何よりだよ」
「ふふ、まあね。やっぱり、本物の才能っていうのは隠しきれないものなのよ。今まで旭のアドバイスを聞いてきたけど、結局は私のポテンシャルがあったからこそ、ここまで来れたんだと思うの。最近は、自分の直感だけで動いたほうが、数字が伸びる気がするわ」
自分の直感、か。
彼女が投稿してバズったあの企画も、あの写真の構図も、すべて俺と凪沙が裏で広告費を投じ、サクラのアカウントを操作してトレンドを作り出したものだというのに。
土台があるからこそ踊れる舞台の上で、彼女は自分が空を飛んでいると錯覚しているらしい。
「そうだね。瑠璃花には、僕が思っていた以上の才能があったのかもしれない。……じゃあ、僕はそろそろ仕事に行くよ。今日はクライアントと大事な打ち合わせがあるんだ」
「いってらっしゃい。あ、帰りにあのメゾン・ド・ショコラの限定品、買ってきてね。友達とのティーパーティーで使いたいから」
自分では買いに行かず、俺を小間使いのように扱う。
俺は微笑んで頷き、部屋を出た。
マンションの地下駐車場。地味な国産セダンに乗り込むと、助手席には既に凪沙が座っていた。彼女は慣れた手つきで車載モニターをハッキングし、皇凱旋の現在の資産状況を映し出す。
「旭さん、順調です。皇凱旋は、瑠璃花さんを『資産家の娘か、あるいはパトロンを持つ女』だと誤認しています。彼女を略奪することで、背後にいるはずの資金源――つまり旭さんの資産を奪えると思い込んでいる。彼は現在、自分の見栄を維持するために多額の借入を重ねており、瑠璃花さんとの結婚を『一発逆転の勝負』と考えているようです」
「お互いに、相手を『金の卵を産むガチョウ』だと思っているわけか。皮肉な共依存だね」
俺はエンジンをかけ、車を走らせた。
皇凱旋。自称・天才投資家。
その実態は、親の遺産を食いつぶしながら、中身のない投資セミナーで弱者から金を巻き上げているだけの詐欺師に近い男だ。彼が瑠璃花に贈っているブランド品も、実はすべてレンタルか、あるいは偽造品。彼は瑠璃花を利用して、さらなる大きな投資詐欺を働こうと画策している。
そして瑠璃花は、その偽物の輝きに目を奪われ、自分を育ててくれた本物のプロデューサーを捨てようとしている。
「凪沙、計画の第二段階を開始してくれ。皇凱旋の事務所の賃貸契約、および彼が利用している高級レンタカーの与信情報を精査。タイミングを見て、すべて一斉に『事故』を起こさせる」
「了解です。……それと、瑠璃花さんが楽しみにしているあのパーティーですが、会場の予約名義を旭さんの関連会社に変更しておきました。彼女が当日、どんな顔をするか楽しみですね」
俺はハンドルを握り、夜の街へと車を滑らせる。
復讐とは、ただ相手を殴りつけることではない。
相手が信じている「自分自身の価値」が、いかに脆く、いかに空虚な積み木細工であったかを突きつけることだ。
瑠璃花。君は、自分がなぜ美しいのか、なぜ人々に称賛されるのか、その理由を最後まで知ることはないだろう。
君が愛したその美貌も、地位も、贅沢な暮らしも。
僕が手を離した瞬間に、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
三周年の記念日。
それが、君という作品の「廃棄処分日」だ。




