1話 穢れの公爵令嬢、ヴィクトリア
――穢れの令嬢に求婚があった日のこと。熱を上げたのは恋ではなく、戦いの狼煙だった。
闇に沈む王都の外れ。溶けた雪で湿った石畳に、蹄の音が規則正しく刻まれていく。
私の馬車は、夜の帳を縫うように静かに進んだ。窓の外では、月に濡れた巨大な城壁と、天を突く尖塔が影を伸ばす。
王都アストリア――私がこれから上がる「舞台」
気づけば右手の指先が、深緑のドレスの袖を無意識にいじっていた。上質な魔導シルクの下、魔物の毛を撚り込んだ糸の感触。指先の感覚が、夢見心地を引き戻す。
「……まだ、夢の続きみたいね」
掠れた独白は、革張りの座席と香木の匂いのあいだで消える。
閃光。轟音。骨の軋む音。焼けたアスファルトの匂い。
どこまでが日本の記憶で、どこからがこの世界の現実なのか。境界はときどきほどけ、混ざるたびに「私」と「私」は少し別の形になる。
交通事故に遭ったはずの私が、紙の上でしか知らなかった異世界の貴族令嬢に憑依するなんて――。
昔の私は、そんな物語を喜んで読んだ。けれど、これは誰かが拍手するための舞台じゃない。
いまの私は、紛れもなくヴィクトリア・アークリード。逃げようのない事実。
厳冬の王国、そのさらに北に広がる「忌み領」の若き女主人。王都へ莫大な富と温みを供給する代わりに、「穢れ」の象徴として疎まれる家の後継。
魔物素材で仕立てたこのドレスは、国でいちばん贅沢で、同時にいちばん冷たい視線を呼ぶ衣装だ。富を積むほど、孤独は深く濃く沈んでいく。
――“元のヴィクトリア”はどこへ行ったのだろう。
前世が私なのか、憑依の瞬間に塗りつぶしたのか。二つの記憶の重なりが、いまの私をかたち作っているのか。答えは出ない。
それでも言い聞かせる。私は、いまここで生きている。
対面の席には執事のバルド。彼は私の顔色を読みながら、余計なことは言わない――幼い頃の泣き顔も笑い顔も、今の私になってからの戸惑いも、いちばん多くを見た他人。
「ヴィクトリア様、間もなく王都の門に到着いたします」
「ありがとう、バルド。……今夜は、いっそう冷えるわね」
ただ、王都の中は別だ。
城壁の内側、街路樹には霜が降りきらず、白い湯気がどこまでも漂っている。地中に組まれた温魔導陣が、夜通しぬくもりを巡らせているからだ。
――原動力の魔石は、アークリード領から来る。
人々はそれを「文明」と呼び、同じ口で私たちを「穢れ」と囁く。温みを受け取りながら、仮面の下では手を汚した者の名は遠ざける。そういう世界だ。
「……みんな仮面を被って楽しいのかしら? その下では全く別のことばかり考えているのに」
皮肉まじりの声に、バルドは控えめに笑んだ。
「アークリード家の富は、この国の礎。妬み嫉みで風当たりは強くなりましょう――ですが……どうか、誇りをお持ちください。彼らは、仮面がなければ自分の足で立つことすらできないのです」
誇り。言葉にするのは簡単だ。
この家の富は、忌まわしい「穢れ」と引き換えに得たもの。どれほど王都を温め、国庫を潤そうと、私たちが「清らか」と称される日は来ない。誰より高価なドレスをまとって、誰より深い寒さを知る。それが現実。
陰で「穢れの令嬢」と呼ばれているのも知っている。面と向かって言う者はいないが、秩序のバランスを取るため、誰もがその“役”を必要としているのだろう。
やがて荘厳な城門が近づく。等間隔の槍先が、松明の光を鈍く返した。
アークリードの紋章を見るや、門番は作法ではなく反射で半歩退く。歓迎ではない。恐れ、嫌悪、そして――ほんのわずかな富への憧憬。
車輪が止まり、扉が開く。外気が流れ込み、裾が夜風にふわりと揺れた。窓を少し上げると、湿った土の匂いに庭園の甘い花の香りが混じる。
「アークリード公爵家令嬢、ヴィクトリア様、ご到着にございます!」
張り上げた声に合わせ、衛兵は直立する。けれど、誰ひとり視線を合わせない。
一段ずつ背の高い馬車を降り、石畳に踵を据えた瞬間、私は私の仮面をぴたりと合わせた。吊り上がる眼差し。真一文字の唇。
――私が、私こそが、アークリード。ヴィクトリア・アークリード。
王都の夜は、光も影も過剰だ。城の窓でランプが揺れ、豪奢な馬車が広場を回る。城正面に横付けできるのは公爵家だけ。歴史と地位は、ここでも細かく序列を刻む。
エントランスを抜け、ダンスホールへ。今宵の舞踏会――私の戦場。
王太子、貴族院の長老、聖教会の高位聖職者、磨き上げられた笑顔を備えた令嬢と子息。
きらびやかでも、いまの私には耐えるべき退屈でしかない。
いいわ。どうせなら、徹底的に演じ切る。
“穢れの令嬢”と囁かれるのなら、息をのむほど完璧な悪役で。
ホールの前で、バルドが囁く。
「ヴィクトリア様。王都は演者と観客ばかりの舞台にございます。ですが、どの劇にも、必ず結末が」
「ええ。たとえ一人でも踊りきってみせるわ」
自分でも驚くほど澄んだ声が出た。幕はもう上がっている。
高く掲げられたシャンデリアの光が、大理石の床に反射していた。
会場の中は、むわりと濃密な空気で満たされている。甘ったるい香水、上質な酒の匂い、そして、人々の期待と警戒が入り混じった、密やかな緊張感。
「ヴィクトリア・アークリード様のご入場です!」
司会役の従者が名を高らかに告げた途端、それまでざわめいていた会場が水を打ったように静まり返る。視線が、扉の前に立つ私へと一斉に集中した。
私が一歩を踏み出すたび、ヒールの音がこだまする。背後から順に小さなさざめきが生まれ、波紋のように広がっていく。
「……あれが、アークリードの令嬢」
「魔物を殺して得た富で作ったドレスですって……なんて汚らわしい……」
「貴族院では“穢れの令嬢”と囁かれているそうよ。見て、あの冷たい目……悪魔のようだわ」
扇の影で交わされる声は、私に直接投げつけられることはない。明確な“境界線”が引かれているだけだ。私は贅沢な装いでこの場に立つことを許されながら、決してこの輪の中には迎え入れられない。
完璧な微笑みを唇に貼り付けたまま、しなやかに揺れる琥珀色の髪を意識して、計算された歩調でフロアを一歩ずつ歩み進める。
壇上から、この国の王太子殿下が私に視線を向けた。その隣には貴族院の重鎮たちや、聖教会の高位聖職者の顔ぶれもあった。
彼らの表情もまた、見事な仮面そのものだ。穏やかさを装いながら、その奥で何を算段しているのか。
「あれが、北の“穢れ”の象徴か」
「可哀想に。来年成人だと言うのに、今から婚約者を得るのは絶望的ではなくて?」
――いいえ、同情など必要ない。
再び背後から聞こえた声に、心の中で返事をする。
広間の中央に設えられたひときわ大きな時計が、重々しい音を立ててゆっくりと刻を告げた。舞踏会はまだ幕を開けたばかりだというのに、私はその中心で“見世物”として舞台に立たされているような、息苦しい感覚から逃れられない。
その時。
喧騒を割って、会場の最も奥にある重厚な扉がゆっくりと開かれる。
「――本日より、我が国へ留学される賓客をお迎えいたします! グランザルク王国第三王子、ルシアン・オルヴァン=グランザルク殿下のご入場です!」
その名が読み上げられた瞬間、ざわめきが走る。グランザルクの異端者。通称“たわけ王子”。
母国で疎まれ、厄介払い同然にこの国へ送られてきたと噂の、もう一人の悪役が登場だ。
一拍置いて、会場全体が息を潜める。そして、扉の向こう側から一人の男が現れた。
すべての視線が、一点に吸い寄せられていた。
静寂の中を、長身の青年が堂々たる足取りで歩み入る。
艶のある黒髪に、同じ色の瞳。噂に聞く「たわけ」という言葉とはおよそ結びつかない、どこまでも冷ややかで、傲然とした空気を纏っていた。
彼の着ている礼服は、この場の誰よりも派手さを抑えた黒一色の仕立てだったが、その身のこなし一つひとつが、まるでこの舞台の主役は自分だと宣言しているかのように場を支配していく。
そして、黒曜石のような瞳が、人々の頭上を越えて私と真っ直ぐにぶつかった。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
彼だけが、私を「仮面越し」ではなく“人間”として見ている気がした。
ルシアン殿下は、周囲の視線など意にも介さず、まっすぐに私のほうへと歩いてくる。王太子も慌てて一歩前に出て歓迎の笑みを浮かべているが、その顔は引きつっていた。息を潜めている誰もが、この“異端者同士”の邂逅を、恐れながらも期待しているのが手に取るように分かった。
ついに彼は私の目の前で立ち止まると、わずかに顎を上げて、挑むように言った。
「……ようやく、お目にかかれたな。アークリード嬢」
彼の低い声が、張り詰めた空気を震わせる。
「ようこそ、王都アストリアへ。殿下。心よりお待ち申し上げておりましたわ」
私もまた、一歩も引かずに応じた。
「皮肉がよく似合う。噂通りだな、“穢れの令嬢”」
その言葉に、私はゆっくりと目を細め、かすかに口角を吊り上げた。
「ご期待には、きっと添えることと存じますわ。私も、お噂はかねがね伺っております。“たわけ王子”殿下」
瞬間、広間の空気が剃刀ようにピンと張りつめた。誰もが息を詰め、仮面の下で好奇と警戒の色を浮かべている。その視線の輪の中心で、私とルシアン殿下は互いの魂を測るように、一歩も引かずに見つめ合った。
ほんの一瞬、彼の唇に微かな笑みが浮かんだように見えた。それはすぐに消え去り、再び冷徹な表情へと戻る。
頭上のシャンデリアが、何事もなかったかのように王都の夜を煌々と照らしている。仮面の奥で呼吸を殺す人々。
この夜の終わりにはきっと、私はもう、“穢れを受け入れるだけの人間”ではいられなくなる。
そんな確信にも似た予感が、私の胸を焦がし始めていた。
時を待っていたかのように、弦が跳ねた。
張り詰めた空気に、水滴が落ちたような音だった。
王宮の舞踏会場は、一瞬にして温度を変える。
ご丁寧に空気まで整えてくれるとは、さすが王宮付き楽団は一流だと言える。
私は口元まで扇を持ち上げ、名ばかりの微笑みを浮かべた。動揺と期待は胸の内に沈め、涼しい顔を保つ。贅沢と矜恃は口にせず、態度に纏わせるもの。ヴィクトリア・アークリードとは、そうあるべき存在なのだ。
今宵は私も“主役”だった。ただし、悪役という名の役柄で。
スポットライトの光を浴びるのは、栄誉などではない。妬み嫉みで押し上げられる、生贄のようなもの。
目の前には、いまだルシアン殿下が立っている。
「踊らないのか?」
「生憎、パートナーに恵まれておりませんの」
「意外だな。お前なら、引く手数多かと思ったが」
「ご冗談を。私に手を差し伸べる方は、よほど勇気があるか、あるいは……無知。大抵は、そのどちらかですわ」
さらりと皮肉を返すと、ルシアンの口元がわずかに動いた。それは、笑ったのか、呆れたのか。どちらともとれる表情だった。
やれやれ。この男、無表情の奥に、意外と悪い性格を隠している。
愛想笑いで流していると、視線の端に、にやけた顔がふたつ、ちらついた。
濃い香水と甘い酒の匂いをまとい、磨きすぎた靴底がきい、と床を鳴らす。袖口は作り付けのモチーフで飾られ、無理に誇示した宝石の光だけが場違いに反射している。
彼らの視線は私の顔では止まらない。耳飾り、指輪、胸元――そして殿下の影をかすめ、さらにその先へ。
アークリードの“忌み領”。温魔導陣に通う熱、積み上がる魔石、その裏にこびりつくもの。金の源流へと、目が滑っていく。
王国の穢れを引き受けて得た莫大な富。それが意味する重さなど、彼らは知らない。
「失礼を承知で申し上げますが、我々も御一緒させていただいても?」
「……さすが、王都の下級貴族は勇ましいこと。失礼だと思うなら控えるのが筋ではなくて?」
開いた扇子で口元を隠したまま、横目でじろりと睨む。
彼らの顔が、一瞬だけ“やばい”という色を見せる。だが引くような分別があるなら、最初から近寄っては来ないだろう。
まだ何か言いたそうな顔をして、私の出方を見ている。
「……どうやらご自分の立場を、理解していらっしゃらないようですから申し上げますが、ルシアン殿下との会話に割り込む理由が、何かございましたかしら? たしか、ラスティル子爵のご子息と、隣の方は……ディルバート男爵家の方? あなた、ついていく相手は選ばなくてはなりませんよ。間違えると、どうなることかしら」
ルシアン殿下が声を重ねる。
「お前たちは、王国法を知らないのか? 上位貴族の会話に割って入れば、場合によっては家ごと吹き飛ぶが」
その一言で、男たちの顔色がみるみる青ざめた。情けないほど早く退散していく背を、私は見送りもしなかった。
背後に控えていたバルドに軽く目配せすると、彼は一礼して静かにその場を離れた。私の忠実な執事。これから先、あの二人を王都で見かけることはなくなるだろう。
しばしの沈黙が落ちる。
その間、ルシアン殿下はじっとこちらを見つめていた。
「……今日のダンスを申し込むのが俺だったら、パートナーとして不足はないな?」
その言葉は、銀の匙のように、私の胸元にすっと差し込まれた。
私は瞬き一つ、動けずにいた。扇を握る指先が、気づけばわずかに汗ばんでいる。何かを言い返そうとして、けれど舌が喉の奥で固まっていた。
「……殿下。今日、私にその言葉を伝える意味を理解して、仰っていて?」
やっとのことで出た声は、想像していたよりもずっと小さく、かすれていた。
彼は私の問いに、まるで天気の話でもするかのように――いや、むしろ、天気よりも自然な口調で言った。
「求婚だ。そうだろう?」
弦楽の旋律が、ひときわ高く舞い上がった。
ふと気づけば、私たちの周囲にいた貴族たちの目線がこちらを観察しているのが目に入った。
グラスを手にしたまま。ダンスの足を止めぬようにしながら。気づかぬふりをしてこちらへ耳を向けていた。
私は、彼を見返すしかなかった。
ルシアン殿下は、私から目を離さない。
嘘がない。だからこそ、質が悪い。
「なぜ……いま、この場で?」
小さく吐き出した言葉は、私の中の理性がぎりぎり絞り出した抵抗だった。
彼が何者であるか、私はよく知っている。
隣王国の第三王子。”たわけ”と悪名高き王子。
「この場が、最も“人目に触れる”からだ」
「……!」
「君が断れば、皆が知る。“アークリード家が求婚の申し出を断った”と。だが、受け入れれば、それもまた、皆が知る」
ルシアン殿下の言葉は、ひどく静かだった。静かで、逃げ場がなかった。
私は息を呑んだ。
なんて卑怯な男。
けれど、なんて正しい。
これが彼のやり方なのだ。あらゆる状況を掌の上に乗せ、最も有利な一手を迷わず打つ。しかも、その理由が合理的だからこそ、反論の余地がない。
「殿下……これは、戯れですの? 隣国王家の人間が、興味本位で私のような“穢れ”に求婚とは、ずいぶんな遊びですこと」
「遊びなら、君を選ぶ理由はない」
その言葉に、胸の奥で何かが跳ねた。
彼は、わずかに歩み寄った。
ほんの一歩。けれどその距離が、異様に近く感じられた。背筋がこわばり、視線を外そうとしたのに――できなかった。
「君は美しく、危険で、目を逸らせば呑まれそうになる。俺はそれが面白いと思った」
何を言っているのだろう、この人は。
そんな言葉が喉まで上がったが、声にならなかった。
ドレスの裾が揺れ、爪先がわずかに後ろへ下がる。
逃げれば追われる。向き合えば捕まる。そんな錯覚に陥った。
会場のざわめきがほんの少しずつ戻ってきたが、私はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
それは恋の始まりのように。
そして、どこか戦いの狼煙にも似ていた。