5-2 晁彦の求婚2
食べ終えた食器を下げて、蓬は晁彦と食堂を出た。
晁彦に手を引かれて、連れて行かれた先は庭の東屋だった。出仕の選抜試験の日、蓬が晁彦に琵琶を披露したのもこの場所だった。
晁彦は蓬を座らせ、その隣に自身も座った。
それから、蓬に向かって尋ねた。
「蓬、これから私がする質問に、正直に答えてくれるか」
「う……あ……はい……」
晁彦の言葉に、しばらく迷って蓬は頷いた。
蓬の内心はくたくたにとろけて、どうすればもとのように固まってくれるのか、蓬には皆目見当もつかない。
だから、蓬は頷くほかない。
「ずっと、考えていたんだが……、蓬、おまえは女子なのではないか」
「はい……」
「それから、竜田家の姫の、萩の君なのだろう。月の宴で会った、あの」
「……はい」
ああ、ずっと見抜かれていたのか。
そうとも知らず、自分だけが隠し通せていると勘違いして。
今になって、二つも年下の男のひとの前で、みっともなく泣いているだなんて。
滑稽なものだなぁと、蓬は胸の内で自嘲する。
蓬の目を隠す前髪を、晁彦の指がかき分けた。彼の手は蓬の頬を包んで、その親指はあふれる蓬の涙をぬぐう。
晁彦はほんの少し苦しそうな、寂しそうな顔でこう問うた。
「私が縁談を申し込んだのが、そんなに―――泣くほど、嫌だったのか」
ああ、そうだ。嫌だった。
晁彦の隣に別の姫が立つことを考えると、ひどく寂しかった。
本当は、こんな我儘な答えを口にしてはいけないけれど。
(だけど、殿下は先ほど、正直に答えよと仰せになった)
「……はい」
蓬がそう答えると、晁彦はひどくつらそうな顔をした。
困らせているんだろうと蓬は思った。
「……どうしても、嫌か」
「はい……」
(困らないわけがない。信頼していた出仕は女の身で、ようやく決めた縁談に不服を言ってくるのだから……)
晁彦が触れている頬が、あたたかい。
きっとこれからは、このぬくもりは后となる姫君だけが得るものとなるのだ。
今から、どうかこらえてくれと説得されて、晁彦専属の出仕の任はきっと解かれることとなる。
(分を超えた出仕がこのぬくもりを受け取れるのは、これが最後。―――最後だ)
しかし、そう思っていた蓬の耳に、まったく別の方向からの質問が飛んできた。
「それは……私が蓬よりも年下だからか」
「……はい?」
その晁彦の声は、拗ねているような、不満げなものだ。
納得できないと言いたげな。
「それとも、魔族のくせに力が弱いからか。蓬に、剣も弓も敵わないからか」
「え、と……でんか……いったい何の話を……」
晁彦の手が、蓬の頬から離れた。そしてその手は、再び蓬の手を握る。
まるで愛し合う者同士がするみたいに、晁彦の指が蓬の指に絡められる。
「蓬が、文を返してくれぬ理由の話だ。蓬が、私との縁談を嫌がる理由についての……」
そう言って、晁彦が蓬の手を引き寄せる。
至近距離で蓬を見つめる菫青石のような瞳は知らぬ色を纏って、その顔は苦しげに顰められている。
「殿下が文を送った相手は……私なのですか……?」
まずは状況を把握しようと、こんがらがったままで、蓬はやっとそう尋ねた。
すると、晁彦の瞳が大きく見開かれた。
「……は?」
「……?」
「そうだが……まさか、え、竜田家から知らされていないのか……?」
「実家からは特に何の連絡も……」
嘘だろう、と晁彦が愕然とした顔をするが、そう言われてもないものはない。
しばらく唖然としていた晁彦は、しばらく経って口を開いた。
「じ、じゃあ、なんで蓬は泣いたんだ?」
「それは……」
言い淀む蓬を、晁彦はじっと待っていた。
おそらく、言わないままにはさせてもらえないのだろう。
「……私は、驕っていたんです。殿下がご結婚されても、何も変わらず殿下のお傍に居られるものだと勝手に思い込んで。だけど、さっき殿下のお顔を見たらわかりました。きっと、何もかもが変わってしまうんだって」
晁彦は、蓬の話をじっと黙って聞いていた。
ときどき撫でられる指先が熱い。
「……だけど、それだけじゃない。それだけじゃないからダメなのです。私、殿下が縁談をお申込みになったと聞いて思ってしまったのです」
侍従長たちと話したときの記憶がよみがえる。
あのとき、蓬は確かにこう思ったのだ。
「殿下の隣に、知らない女が立っているのが、嫌だ……。そこは―――そこは、私の場所なのに……」
晁彦の手が蓬の背中に回された。一拍遅れて、自分が抱きしめられていることに蓬は気づく。
蓬の耳元で、晁彦がぽつりとつぶやいた。
「まぁ……ひとまず、前進ということかな。今はまだ」
蓬がその言葉について尋ねる前に、晁彦は蓬の名を呼んだ。
「蓬」
「はい」
「これは提案なんだが」
「はい」
「私と婚約を結ばないか」
「婚、約……」
「ああ。私と婚約すれば、変わるのは私たちの関係の名前だけだ。出仕の仕事も、蓬の立つ場所も、何も変わらない」
晁彦は抱きしめていた腕を解き、まっすぐに蓬のことを見た。
どうだろうか、と正面から尋ねた。
「……よいのですか」
「なにが」
「殿下も、月の宴で耳になさったでしょう。私は『怪力姫』です。殿下の御評判を落とすことになるやも……」
蓬が言うと、晁彦の手が蓬の両頬に伸びてくる。
そして、その大きな手のひらに蓬の頬はむぎゅっと挟まれた。
「蓬は自分の怪力を恥じているのか」
そう尋ねた晁彦の声は、少しだけ怒っているかのように聞こえた。
誤解だ、と蓬は慌てて首を振る。
「ふぃ、ふぃいえ……ふぇふは……」
「私は蓬よりも年下で、力もなくて、蓬にいつもいつも守られている。きっと知らないところでも。守られてばっかりだ」
「…………」
「だけど、それでは、蓬は? そういう、揶揄する言葉や悪意からは誰が蓬を守る……? 誰が、蓬のよりどころになる……?」
頬を挟んでいた晁彦の手が離れる。
「ずっと傍で、私を守ってくれるんだろう。ならば私にも……蓬の大切なものを守らせてほしい」
晁彦の真剣な表情に、蓬は自分の頬がじわじわと熱くなるのを感じていた。
(なんだ……これ……)
頬だけじゃない。鼓動はなんだか早く跳ねるし、晁彦の顔が直視できない。晁彦に触れられた場所全部が、じわりと甘い熱を持っている。
ふいに、晁彦と目が合う。
瞬間、蓬の目の前で、星がはじけた。
それはきらきらと瞬いて、蓬の視界を染め上げる。
そうして、蓬はつい、そうしたいという欲のままに頷いていた。
「はい」
蓬の返事に、晁彦が顔を輝かせた。そうして、再びぎゅっと抱きしめられる。
ふわりと月桃の香りがする。晁彦の香りだ。
(……なんだか……安心したら、急に……眠く……あんしんって……わたしは、なにがふあんだったんだっけ……)
ここしばらく、なぜか眠れていなかった蓬の意識は急速に落ちていく。
「蓬……? ……ぎ、よもぎ……」
晁彦が名を呼ぶ声が遠ざかる。
その日の蓬の記憶は、その柔らかな音で締めくくられたのだった。