5-1 晁彦の求婚1
(私、なにやってんだろ……)
夜、仕事を終え、職員用の食堂へと向かう道中で蓬は考えていた。
今日の仕事はなんとか終えられたものの、普段はしないミスをしたり上の空だったりで散々だった。
(殿下がご結婚なさったって、私には関係がないことで……私が殿下の出仕じゃなくなるわけじゃないのに)
自分は一体、何にこんなに心を乱されているんだろう。何に対してこんなにも腹を立てているのだろうか。
わからぬまま、蓬は食堂に辿り着いた。
今日の日替わりのメニューは焼き魚定食だ。魚は秋刀魚。
加えて、今日からひと月の間、定食のお米は山都国西領産の新米らしい。お味噌汁は落とし芋で、秋らしい献立であった。
定食ののった盆を受け取って、窓に面したカウンター席にいつものように腰かける。この席からは、天津国を取り巻く雲海と、銀砂を零したような星河がはるか遠くまでよく見える。
(……大丈夫。案外、大丈夫。ごはんもちゃんと食べられているし……)
こんもりと盛られた蓬の地元の新米は、ふっくらつやつやとしている。口に含むと、お米の一粒一粒が際立っているのが分かる。秋刀魚に箸を入れると、パリッとした皮の下からふわふわの身が現れた。大根おろしを少しのせ、ぱくりと頬張る。
脂ののった身は、大根おろしで後味もさっぱりとして、一から十まで美味しい
「よかった、まだ居たな」
もぐもぐと食事を摂っていたところにふいに後ろから声をかけられ、蓬は振り向いた。
深い青色の麻の着流し姿で立っていたのは、晁彦だった。
晁彦が職員用の食堂にやって来るのはさして珍しいことではない。というのも、晁彦は職員たちの食事の様子を見るのが好きなのだ。週に二度は来て、何を食べるでもなく、ただ皆がものを食べている様子を眺めては、満足そうに微笑んでいる。
忙しくなると顔を出せなくなるので、ここ一か月は来ていない。
こういうとき、九年前から晁彦の定位置は蓬の隣か向かいの席だった。蓬は武道の腕前もあるのだから護衛も兼ねることができて一石二鳥だ、というのが晁彦の論である。
最初の頃こそかしこまって食べたりしていたが、今となっては慣れてしまい、蓬からすれば、普通の店で相席するような感覚になっていた。
「こんばんは、殿下」
「久々に暇ができたから、来てしまった」
「ご政務、おつかれさまです」
「蓬もな。……なんだか、蓬と顔を合わせるのは久々のような気がするな……」
「ええ、まぁ。ほとんど毎日、政務ではお会いするはずなんですけどね」
「なんでなんだろうなぁ」
「なんでなのでしょうねぇ」
ずず、と蓬は味噌汁を啜る。いつもの味で大変おいしい。
晁彦は頬杖をついて蓬が食べるところをただ見ている。普段と変わらぬことのはずなのに、蓬はどうしてか、いつもより深く安堵していた。
(うん、ほら、やっぱり大丈夫―――)
しかしそこで、蓬ははたと気がついた。
晁彦が結婚したら、この『当たり前だった時間』はなくなってしまうのだと。
(あ、れ……?)
何も変わらぬことなどありえない。きっとこれ以外にも、いろんな事が変わるだろう。
侍従長たちは蓬の性別を知っているのだから、晁彦が結婚した上で、年の近い別の女性が傍に居るのを許すはずがない。
蓬は晁彦を見る。晁彦も蓬を見ている。
そうだ。
きっと、何もかもが変わってしまうのだ。蓬が失くしたくなかったものから、なくなっていくのだ。
(ああ、そうか。私は……私は―――)
蓬がずっと嫌だったのは―――こんなにも、腹立たしかったのは。
(殿下の傍にいられなくなることが、怖いんだ)
目を隠すための前髪の向こうに、晁彦の菫青石の瞳が柔らかく細められているのが見えた。大丈夫だったはずの蓬は、そのまなざしの前ではあっという間に崩れてしまう。
なにも大丈夫なんかではないことを、自覚してしまう。
気づいたのは、晁彦だった。
「蓬、どうしたんだ」
蓬の、長い前髪の隙間を覗くようにして、晁彦が困惑したように言った。
問われて、蓬は首をかしげる。
「何が、ですか」
だって、と言って晁彦は蓬の目元に手を伸ばす。
「泣いているから……」
晁彦の親指が蓬の目元を拭う。そこには確かに水滴がのっていた。
しまった、と蓬は思った。出仕が突然泣いたら、不審だろう。
心配そうな顔をする晁彦を安心させようと、蓬は笑みを作った。
「あ、えっと、これは……その……」
「蓬……」
「殿下、山都国の姫に、ご縁談をお申し込みになったそうですね。あんなに逃げ回っていた殿下が、ご立派です。きっとうまくゆきますよ。これでようやく安心して……」
「蓬」
晁彦の手が蓬の手を取った。諭すように名を呼ばれて、蓬は言葉を切る。
「庭に行こう、蓬。……それから少し、話をしよう」