史的な夜話 其の十八
十年以上も前ですが、曲直瀬道三という医師が居ることを知って「?」となりました。どうしても「道三」と言えば斎藤道三、悪役という印象が強かったので気になっていたのですが、今回ようやく書くことができました。
以前、「史的な夜話」の十六回目で斎藤道三について書かせて貰いましたが、今回は斎藤道三の「道三」と言う名前が気になっています。
斎藤道三は生年が明応三(一四九四)年、もしくは永正元(一五〇四)年と言われ、没年は弘治二(一五五六)年です。そして斎藤道三が「道三」と使い始めたのは天文四(一五三五)年か五年頃と言われています。
例えば武田信玄は永禄二(一五五九)年に出家する際、臨済宗の岐秀元伯という僧が「信玄」という号を名付けています。「信玄」は同じ臨済宗の名僧である関山慧玄にあやかったという説、臨済義玄にあやかったという説もあります。具体的に何を参考として「信玄」と名付けたのは不明なようです。
例えとして武田信玄の名前を出したら上杉謙信の「謙信」も気になります。
上杉謙信は上洛した折、高野山へ参拝した後、臨済宗の僧である徹岫宗九から「宗心」を授けられています。その後、元亀元(一五七〇)年十二月に「不識庵謙信」を名乗るようになります。前年に益翁宗謙という宗教上の師が亡くなっていますが、宗謙の「謙」という字を貰ったのでは無いか、そう言われています。
話を斎藤道三の「道三」へと戻します。斎藤道三が出家する際に名僧、高僧と言われる人が立ち合って「道三」と名付けたのか、それとも本人が仏教用語や漢文の書籍を調べたのか、その点はわかりません。
斎藤道三の場合、父親が日蓮宗の妙覚寺で修行していたり、息子の日饒、日覚も日蓮宗の僧になっていますから日蓮宗の僧侶が出家の際に立ち合い、「道三」の号を授けている可能性もあります。しかし、史料としては何も残っていませんから私の憶測でしかありません。
斎藤道三よりも少し遅れて永正四(一五〇七)年に曲直瀬道三という医師が生まれています。父親については堀部さん、勝部さんの両説がありますが、定かではないようです。
早くに両親を失い、永正十三(一五一六)年には京都の相国寺へ入り、この頃に曲直瀬姓を使うようになります。この曲直瀬という姓もどこから出てきたのでしょうか。師匠とか尊敬する人に曲直瀬さんが居たのでしょうか。
享禄元(一五二八)年に曲直瀬道三は現代の栃木県に向かい、足利学校に入学します。
この足利学校、兵学や医学、儒学も教えていました。曲直瀬道三は始めから医学を学ぶつもりで足利学校を目指したのか、それとも兵学などを学んで大名や武将に仕えるつもりだったのでしょうか。
医学の師匠となる田代三喜とは享禄四(一五三一)年に出会って医学を学ぶこととなります。師匠の田代三喜は天文十三(一五四四)年に亡くなり、二年後の天文十五(一五四六)年に曲直瀬道三は京都へ戻って本格的に医師として活躍を始めます。
曲直瀬道三がいつから「道三」を名乗っているのか、今回はわかりませんでしたが、おそらく医師として活躍を始めて以降だと思いますし、斎藤道三よりは後だと思われます。
曲直瀬道三は将軍の足利義輝、細川晴元、三好長慶らの診察を行い、松永久秀とも交流があったそうです。また啓迪院という学校を創り、そこで医学を教えて数多の弟子を輩出しています。
永禄三(一五六〇)年には正親町天皇の診察を行い、永禄五年には幕府に頼まれて毛利元就の下へ出かけ、大友家との合戦の調停に関わっています。現代を生きる私からすると一介の医師が戦争を止めに出かけるって不思議に感じますし、これで実際に戦争が止まっているのですから四百年前の戦争って私たちには理解できない、まだまだ知らないことがあるのでしょうか。
永禄九(一五六六)年には毛利元就が体調を崩したのでわざわざ出かけて診察し、合わせて後進の育成にも力を注いだそうです。
天正三(一五七五)年十月に織田信長が上洛した折に診察して謝礼として蘭奢待を貰ったそうです。
織田信長にしてみれば嫁の父親が斎藤道三ですから曲直瀬道三と会った時、「道三」談義で盛り上がったりしたのでしょうか?
それとも淡々と診察したのでしょうか?
蘭奢待のやりとりがあったのなら「道三」談義で盛り上がったのではないか、その様に考えています。
天正二十(一五九二)年に後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜っていますが、曲直瀬道三のまま過ごしています。
曲直瀬道三の息子は早くに亡くなったので妹の子である玄朔と孫娘を娶させて曲直瀬家を継がせます。そして玄朔は道三の名も継ぐことになります。
今は無くなりましたが、江戸城の近くに道三堀という地名があったそうです。その由来は二代目の曲直瀬道三が近くに住んでいたからだそうです。
二代目の曲直瀬道三の子から今大路を用いるようになり、合わせて「道三」の名乗りも引き継がれていきます。江戸幕府の医師として今大路道三を名乗った人は合わせて十人を超えたそうです。
ここまで調べて改めて思ったのですが、「道三」とは何か深い意味があるのでしょうか。当初、インターネットを使えばあっさりと答えが出てくると思っていたのですが、こちらが欲しいと思う答えは全く出てきませんでした。
図書館へ行きまして「号・別名辞典」という一冊を読んでいますと「道三」を名乗った人は他に二人居ました。一人は室町時代末期の能役者である宮王道三という人でしたが、この人についてはさっぱりわかりませんでした。
今一人は松井道三という人です。まず松井玄長という人が越中国に居て反魂丹という薬を開発し、引き継いだ松井道三が甲斐国へ出かけて武田信玄から販売の許可を得たとか、そういう話が有るそうです。
しかし、反魂丹の歴史を調べますと実際には中国で創られた薬であり、室町時代には和泉国堺へ伝わっていたそうです。
ある時、富山城の前田正甫と言う殿様が腹具合を悪くしたことがあったそうです。その折に反魂丹を服用して回復したことから反魂丹を気に入り、常備薬として反魂丹を持ち歩くようになったそうです。
それから数年後、江戸城内で他の殿様が腹具合を悪くすると言う場面に偶然居合わせた正甫は反魂丹を譲って救ったそうです。
その場に居合わせた殿様達は反魂丹の販売を正甫へ頼み、正甫は富山の城下に住む松井さんに頼んで反魂丹を製造、販売させることになり、ここから越中富山の薬売りが始まったそうです。
富山藩は特産品に恵まれていなかったこともあり、反魂丹を中心とした製薬と各地への販売は一つの産業として成り立ったそうです。
ここまで斎藤道三、曲直瀬道三を中心に松井道三、宮王道三と四人の「道三」を見てきましたが、結局「道三」の由来などはわからないままでした。
曲直瀬道三について調べていてふと思ったのですが、斎藤道三は「蝮」と言われて悪役のイメージが強いのですが、本当は善人だったとか、どこにでも居る戦国大名の一人に過ぎないのでは無いか、その様に思いました。
史料の中で斎藤道三を「蝮」と記している物は無く、坂口安吾さんや司馬遼太郎さんの作品で世に広まったようです。
斎藤道三が出世する一方で周辺の人達が消えていったのは粛清されていったのか、それとも流行病などで偶然表舞台から姿を消したのか、改めて気になるところです。
斎藤道三は父親が妙覚寺の僧から美濃国へ来て長井新左衛門尉を名乗るようになり、その子が長井新九郎規秀、のちの斎藤新九郎利政、出家して斎藤道三となりますが、いくら戦国時代の下剋上でも他所者が簡単に一国を乗っ取れるのか、その疑問を抱いてきました。
美濃国の武士達で既存の勢力に不満があり、斎藤道三に賭けたのか、それとも傀儡として斎藤家を継がせたら予想外に実力を発揮したのかもしれません。
誰かが今までと百八十度違う、周りに振り回されて渋々権力の階段を昇っていく斎藤道三と描いてくれたら面白いと思うのは僕だけでしょうか?
もしくは医師を目指していた純朴な青年だった、とか……
今回も大して答えとかも無いままに終わってしまいました。
何よりも前書き、後書きって何を書いて良いのやら、毎回悩みます。
参考図書
日本近世人名辞典
寛政重修諸家譜




