前編
「わたしは、ここから離れられぬのです」
少女は桜の花のように――本当に儚く微笑んだ。
――――――――――
――それは卯の月にもなったというのに、少し肌寒い日のことだった。
その場所を尋ねると、気のいい茶店の女は「ああ、それなら近くに行けばすぐに分かりますよ」と教えてくれた。
果たして、その言葉通り、近づくにつれてその場所はすぐに分かった。
里を離れてぽつんと建つ屋敷。そして、その裏には墓石の代わりか、積み上げられた石の柱が一つだけある大きな塚がある。
まるで寺のようだ――知らぬ者が見たならば、そう感じたかもしれない。だが、その屋敷が寺でないことは知っているし、知っているからこそ私はここを訪ねたのだ。
逸る気持ちを抑え、私は歩き出す――と、その屋敷から一人、竹箒を手にした真白い着物の袴姿の少女が出てきた。
歳の頃は十二、三というところだろうか。短い黒髪に白い肌。まだ遠目だが、それでも美しいと感じる少女の姿。思わず目が奪われ、屋敷の裏へと歩いて行く少女の後を私は知らずに追いかけてしまっていた。
屋敷の裏、その大きな塚の前で少女はしばらく手を合わせると、石の積まれた碑のようなものにかかっている葉を一枚一枚丁寧に取っていった。
葉を手に収め、それを塚から少し離れた場所に置くと、次は塚に足を進め手にした竹箒で掃いていく。日常のことなのだろう。流れるように無駄のなく、少女は塚の掃除を行っていた。
だが、それよりも近づくにつれてわかる少女の可憐さ。儚げともいうのか、汚れのない真白き着物がよく似合い、より少女の美しさを際立たせていた。
黙々と掃除をする少女に見惚れ――いや、これでは覗きではないかと我に返り、私は塚へと、少女へと足を向けた。ここまで意識が向いてしまったら、話しかけずにはいられなかった。
近づいてくる私に気づいたのか、少女はスッと視線を向け会釈をしてくれた。どこかの御姫様かと思うような綺麗な仕草。私もにこと笑い、足を踏み出し――だが、じっと見つめてくる少女に気づき塚の前で足を止めた。
「掃除の邪魔をしましたか」
「……いえ」
僅かに首を振り答える鈴のような声。リンとなるような音が心地良く、いつまでも聴いていたいとすら思ってしまう。
成程、これは――私は苦笑した。自身、女に弱い人間だとは思っていないが、一目惚れというのはあるらしい。前の少女の美しさは誰もが認めるだろうが、一つ一つのことにこれだけ心動かされるのは間違いなく惹かれているのだろう。
「――屋敷に御用ですか?」
暫くして――こちらがじっと見つめていたにも関わらず自然と問いかけてくる少女に私はどきりとし、同時にもう一度苦笑して「そうです」と答える。
「納富殿――納富五郎太夫殿は居られますか」
「居ります」
私の問いに少女は悲しそうに一瞬視線を落とし答え、続けて、
「何の御用でしょうか」
そう尋ねてきた。
もしや、この少女は五郎太夫の娘ではないだろうか。それならば、品のある所作も頷ける――そう心の隅で思いながら、
(もし、そうであるならば)
少しの迷いがありつつも、ここで嘘をつくわけにもいかず私は口を開く。
「一手、訓えを頂きたく」
「…………」
私の言葉に少女は黙ってしまった。
入門を望むならこういう物言いはしない。「一手、訓えを」というのは試合を望むもの――そこには二つの意味がある。
一つは修行の技競い。もう一つは、名を上げるため。つまりは道場破り。
「なににも成らぬことです」
「……今、なんと?」
あまりに静かな少女の声とその言葉に、私は一瞬遅れて聞き返した。
「そのようなことは、なににも成りません」
少女は私を真っ直ぐ見つめ、繰り返した。
「それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味です。貴方様が何を望まれているかは分かりませんが、試合をしたとてなににも成らぬでしょう」
「剣を志すのに、意味がないといいますか」
本来なら無礼と怒鳴っても良かったのだろう。だが、少女の――それは少女のどういう内だったのか、静かで儚げな表情に私は怒りを覚えることもできず、だからといって、少女の言葉を受け入れることもできず反論した。
「五郎太夫殿の娘とは思えぬ言葉だ。一度剣をとったならば、より高みを目指し技を磨くは当然でしょう。それを『なににも成らぬ』などと」
「わたしは、五郎太夫の娘ではありません」
「そうだとしても、道場の人間には違いない。ならば、剣の道を理解してしかるべきだ」
五郎太夫の娘ではなかったことに少し驚いたが、私の続けての言葉に少女はまた悲しそうに視線を落とし、
「剣の道なんて――」
小さくそう呟いた言葉に、私ははっとする。
塚を丁寧に掃除する姿、悲しそうな表情――成程、いくら道場の人間といえど、心根の優しい者だったなら、この少女が優しい娘だったなら剣のことなど理解できぬだろう。
納得し、そんな優しさを持つ少女に益々惹かれ、私は我慢ができず自然と言葉を発していた。
「ならば、私が見せましょう、剣の意味を。試合が終わった後、私に着いてくれば自然と分かるはず」
それは、私自身も初めての衝動だった。だが、そうさせるだけの魅力が少女にはある。
「いずれ、私も五郎太夫殿のように藩の武術指南になるつもりです。私にはそれだけの自信がある。剣のことは嫌いかも知れないが、私の側にいてほしい」
「…………」
少女は少し驚いたように目を開き、だが、すぐに首を振った。
「それは、できません」
そして、少女は微笑んだ。
「わたしは、ここから離れられぬのです」
それはまるで散る桜の花のように、少女は本当に儚く微笑む。
そのことにまた心が奪われそうになるが、だからこそ諦めることもできず、
「答えは試合が終わってから。それまで考えていてください」
私はそう伝え、屋敷のほうへ足を向ける。
「――そういえば」
ふと、今更なことに足を止め、私は振り返った。
「名を聞いていませんでしたね」
私の問いに、少女は僅かに首を振った。
「名などありません」
その答えに、名がなければ不便でしょう、と私が再び問うと、少女は慣れたように、
「人からは塚守と呼ばれています」
と答えた。
「『人からは』というのは、まるで自分は人ではないような物言いですね」
少し戯けてそう返すと、「そうですね」とまた慣れたように少女は頷き、
「わたしは死人なのです」
名など必要ないのです、続けて一言そう付け加えた。