黒猫
改札を抜けると、駅前は人で溢れていた。
いつもの雑踏を様々な顔が行き交う。笑っている人もいれば、これから誰かを刺しにいくような目つきをした人もいる。僕はたぶん、その中間あたりの顔で、バイト帰りの足を一人暮らしのアパートへと向けていた。
カフェオレみたいな夕焼け空、その端っこにキラキラと輝く金星の光。ぽつぽつと灯りだす集合住宅のオレンジ色の光。どちらも暖かくて、どちらも僕から途方もなく遠い。蝶を羨む蜘蛛のようにそれらを眺めながら歩く。カレーや総菜の匂いが混ざり合い、空腹が加速する。いそいそと駅前の繁華街を抜け、路地をひとつ入ると、もう通行人もいない。
嫌な予感がした。
どうにも気持ちの悪い道がある。街灯も少なくて暗く、住宅街のコンクリート塀に囲まれた狭い道。塀に貼り付いた苔の湿った匂い。コンクリートのひび割れから滲む泥水が足元を濡らしている。今にも、電信柱の影から口裂け女がぬぅっと出てきそうだった。ぶら下げたビニール袋のカサカサ擦れる音だけが、無感情に響いていた。
そのときだった。
ひょいと、目の前に影が現れた。
思わず「うわっ」と声が出る。
黒猫だった。
そいつはさして興味も驚きもなさそうに、僕を一瞥してから、軽やかに塀の上に跳ね上がり、生垣の奥に消えていった。全身真っ黒な毛並みに、鍵しっぽ。額に三日月状の白い筋模様が入っていた。
──ヒロだ。
間違いなくヒロだった。僕が子どものころに飼っていた黒猫。どこかに消えて、二度と戻らなかった。大人になってからも、何度も夢に見た。縁側の座布団に丸くなり、陽だまりの中で眠る姿。その背中を撫ぜたときのぬくもり。軒先の庭で追いかけっこをした日の風の匂い。帰ってこないことを悟った夜の静けさ。額の三日月模様、細く曲がった尻尾、赤いチェック柄の首輪、あのときと同じ目をしていた。
心臓はまだ跳ね続けていた。こんなことは、ありえないからだ。
◇
「昨日さ、黒猫を見たんだ」
「くろねこぉ?」
僕の言葉に、成瀬はテーブルに突っ伏したまま興味もなさそうに答えた。大学の学食、いつもの溜まり場。もう昼食のピークは過ぎて学生も疎らだった。空の食器を片付けもせずに、僕らは時間を浪費していた。
成瀬は大学の同期で、同じサークルにも所属している。自称霊感ありの変わり者で、人を食ったようなところがある。成瀬を最初に見たとき、なぜかカラスを思い浮かべた。賢そうで、図太くて、こちらが気づかないうちに大事なものを持ち去っていきそうな目をしていた。過去のある事件をきっかけに僕は妙に気に入られて、一緒にいることが増えた。いま思うと、僕の中の怪異の匂いを嗅ぎつけていただけかもしれない。
「そう。バイトの帰りの路地裏で、僕の前を横切ったんだ」
「魔女の使いが横切っただと。また厄介なことになるな」
「迷信だろ。その猫さ、飼ってた猫にそっくりだったんだ」
「ほぉ」
「いや、そっくりなんてレベルじゃない。『ヒロ』そのものだった」
成瀬は椅子を引いて深く座り直し、両手を組んだ。
「ふーむ、それはきっと、ヒロくんだな」
「それはないよ、ヒロはもう死んでる。当時でも老猫だったし、十五年も前の話だよ」
「猫の魂は九つある。二つか三つ使えば十五年くらい生きられるだろ」
「また迷信だ。成瀬だって信じてないだろ」
「でも、そう思った方が嬉しいだろ」
ヒロが命を少しずつ消費して、また僕に会いに来てくれた。もし本当にそうだとしたら……。不覚にも成瀬の言葉で嬉しくなってしまった。そんな優しい心も持ち合わせていたなんて、意外だった。
「そう……か。たまにはいいことも言うじゃん」
「まあな。わざわざ警告しに来てくれるなんて、魔女の使いにしては優しいな」
「は? 警告だ?」
「当たり前だろ。黒猫が横切るのは不吉な予兆だぞ。気をつけろってことだ」
僕は、一瞬でも成瀬に暖かい心があると思った自分を呪った。
「とにかく、そのヒロくんについて詳しく教えてくれ」
成瀬が前のめりになった。黒目がキラリと光っている。こうなったら、思い出話でヤツの涙腺を緩めてやりたくなった。
「ヒロは元野良で、僕がまだ保育園児だったころ、ふらっと家に現れたらしい。僕が自分で選んだ赤いチェック柄の首輪を着けてた。縁側の庭でよく遊んだよ」
「名付け親は誰だったんだ?」
「たぶん僕……あれ、母さんだったかな」
記憶を探るほど、なぜか思い出の中の風景がぼやけていく。母さんの顔も父さんの顔も曖昧で、ヒロの真っ赤な首輪だけが、やけに鮮明だった。
「ヒロくんの好物は何だった?」
「何って、別に普通にキャットフード、いや、待てよ。僕の食べ残しをこっそりあげてた気もする」
「こっそり? 家族で飼ってたんだよな」
「言い間違えだよ。みんなで世話してたよ。僕が一番、仲が良かっただけさ」
言葉がふらつく。確かだったはずの記憶が、成瀬の問いかけに触れるたびに歪み始める。
「曖昧だな。本当に飼ってたのか?」
「しょうがないだろ、保育園時代だぞ。でも、額の白い模様と、赤い首輪だけは、はっきりと覚えてるよ」
「それで、一つ目の命は老衰で尽きたのか?」
「ある日突然いなくなったんだ。猫は死に様を飼い主に見せないって言うだろ。ちゃんと葬式までしたんだぜ、家族みんなで喪服を着てさ。初めての葬式だったからよく覚えてるよ」
成瀬は目を瞑って、「ちゃんと確かめた方がいい」と言った。その言葉が妙に心に残った。
◇
翌日、僕は講義をサボって、いつもとは違う電車に乗った。車窓から見える景色は、いつもの街並みから思い出の街並みに移り変わっていく。時折、窓に映る自分の顔が知らない人間みたいに見えた。
実家に帰るのは久しぶりだった。春休みに一度顔を出したきりで、親とはあまり連絡を取っていなかった。子供のころと同じはず空は、今日は濁っていた。懐かしい駅を出て、通い慣れた道をたどる。頭の中では、ヒロと遊んだ記憶が壊れたビデオテープのように、ノイズ交じりでループしていた。
成瀬の戯言を真に受ける必要なんてなかったはずなのに、どういうわけか、ヒロのことが気になって仕方なかった。あの路地裏の黒猫はヒロだったのか。いや、そんなはずはない。でも、たまたま似た猫を見かけただけとは思えなかった。
どこか記憶が噛み合っていない。そんな違和感が拭えないでいた。
実家のリビングに母はいた。何かを食べていた。テレビの音がやけに大きくて、少し不安になる。母は、僕の顔を見て一瞬だけ驚いて、昔と変わらぬ調子で「冷蔵庫にゼリーあるよ」と言った。あえて会わなかった時間を無視したのは、連絡もなしに突然帰ってきた息子を、とっさに慮ってくれたのだろう。
「ねえ、昔、ヒロって猫を飼ってたよね?」
僕が単刀直入に尋ねると、母はかすかに眉間に皺を寄せた。
「……ヒロ?」
「黒猫で、額に白い筋模様があって、たまに家出したりしてさ」
母は困ったような顔で笑った。
「何言ってるの。猫なんて、飼ってないわよ」
時間が止まった気がした。ヒロの姿、声、重さ、それらが全部、ふわふわと靄の中に溶けていくような感覚がした。
「いや、飼ってたよ、忘れちゃったの? 僕が小学生に上がる前くらいにさ、ほら、庭でボールで遊んでたし、赤いチェック柄の首輪してたじゃん」
「うちでは動物は飼ったことはないわよ。保育園か小学校で、黒猫のお話を読んだことがあった気がするから、それを自分のことと勘違いしてるのよ」
「絶対に飼ってたよ。この前、ヒロがまた僕の前に現れたんだ。いや、とてもよく似た猫だけど、その時に思い出したんだ。元々、野良猫で、ある日突然いなくなったじゃないか。結局帰ってこなくてさ、お葬式までしてさ──」
「そう……かもね。私が忘れてるのかもしれない。……最近、大学はどうなの?」
これ以上は何を言っても無駄だと思った。母は昔から、都合の悪いことをあえて深く追及しない性格だったし、もしかしたら本当に覚えていないのかもしれない。こうなったら物的証拠を探し出すしかない。
僕は母にため息で答えて、とりあえず冷蔵庫からゼリーを取り出し、リビングのソファに座った。ぼんやりと対面の棚を見つめる。家族のアルバムを数冊引っ張り出してみるけど、ヒロの姿が映った写真は一枚もなかった。そんなはずはない。
アルバムを投げ出して、二階の自分の部屋に向かう。しばらく帰らないうちに荷物置き場にされてはいたが、愛用の勉強机はそのままだった。押し入れを開くと、懐かしい匂いがして、数冊の絵日記が目に留まった。その内の一冊を手に取って、ぺらぺらとめくる。プールに入った日、朝顔が咲いた日、ハンバーグがうまかった日。
そして、あるページで手が止まった。
《ねこがきえた》
拙い字で書かれたその記録には、絵も日付もなかった。ただ、黒いクレヨンで書かれた文字だけがそこにあった。隣のページには空白が続いていて、そのあとしばらく、絵日記自体が中断していた。
その六文字を見た瞬間、息が止まった。泥水に落ちた白いハンカチのように、思い出したくない記憶が、瞬く間に僕を染めていく。そういうことだったのか。
ドタバタとリビングに降りる。台所で夕飯の支度をしている母の背中に向かって言う。
「母さん、ありがとう。嘘をつかしてごめん。わざわざアルバムの写真まで隠してくれたんだね。……僕のせい、だったんだよね」
母さんはゆっくりと振り返って、
「違うの。思い出さなくてもいいこともあるのよ……」と、言った。
とにかく証拠はあった。僕は母さんの顔を見ないようにして、家を出た。
◇
「それで、猫の件はどうだった?」
先輩が寄付したボロボロのソファに、どかっと沈んだまま、成瀬は言った。気の抜けた声になぜだか安心する。僕らはサークル室に二人だけ残っていた。窓の外では学生たちが、それぞれの目的地へ流れている。ここだけ時間から取り離されているような気がした。
「母さんは、猫なんて飼っていなかったと言ってた」
「そうか。つまり君は──」
「でもさ、ヒロの痕跡を見つけたよ。絵日記に『ねこがきえた』って書いてあった」
「君は……。絵日記の文字だけか?」
「そうだけど、その文字が思い出させてくれたんだよ」
「何を思い出したんだ」
「ヒロは、確かにいた。でも、母さんはそれを隠している」
言葉にしたらきっと後戻りはできない。でも止められなかった。
「それは〝僕がヒロを殺したからだ〟」
声が震えた気がした。身体の芯が冷たくなる。
「君がヒロくんを殺した? その光景を思い出したってのか?」
「そうだ。その記憶を心の奥に閉じ込めたんだ。だからヒロの記憶が曖昧だった」
「どうやった? どうやって殺した」
成瀬の声が一段低くなる。促すようで、追いつめるようでもある。
「それは、あれは多分、用水路だと思う。僕はヒロと一緒に魚かザリガニを見に行ったんだ。いつもより水嵩が増えていたんだ。雨の後だったんだと思う」
「そこにヒロくんが落ちた……と」
「助けられなかった。その日に、あの日記を書いた。そして、無理やり忘れたんだ」
「ちょっと待ってくれ。日記には『ねこがきえた』と書いてあったんだよな?」
「そうだよ」
「なぜ『ヒロがきえた』じゃないんだ?」
答えようとして、言葉に詰まった。僕の内側で何かが崩れ始めていた。
「死んだ猫は本当にヒロくんだったのか?」
「でも、そうとしか考えられないだろ。僕にはヒロの記憶しかない。母さんもそれを隠していた。子供だった僕の心を守ったんだよ」
「じゃあ、ヒロくんは何を警告しに君の前に舞い戻ったんだ?」
「いいかげんしろよ! あの猫はヒロじゃない! ヒロに似てただけだ!」
僕はたまらず声を張り上げた。サークル室の空気が変わる。
「似てたんじゃない。君は『ヒロそのものだ』と言った。本物のヒロくんだよ」
「……だから、それはありえないだろ」
成瀬の意味不明な頑固さに疲れて、声が小さくなる。
「なぜ、『ヒロがきえた』じゃないんだ。本当にヒロくんがいたなら、名前を書くはずだ」
「それは、子供だったし……」
「ヒロという名前は君がつけたと言ったな。どうしてその名前にしたんだ」
なぜ、僕はヒロと名付けたのか……思い出せない。
本当に僕が名付けたのだろうか。それとも……。
「君が〝ヒロ〟と呼んでいたその存在が、本当に〝猫〟だったという証拠は、どこにある?」
「……ヒロは猫だよ。黒毛に白い模様、赤いチェック柄の首輪をして……」
「赤いチェック柄」と口に出して、僕は意味の分からない吐気を催した。
なぜ、あの色だけ鮮やかに思い出したのだろう。
なぜ、あの首輪の「感触」を思い出したのだろう。
なぜ、僕は──。
ぐらりと、何かが揺らいだ。
「君は、猫がいなくなって『家族全員で喪服を着て葬式をした』と言った」
成瀬は視線だけこちらに向けた。
「そういう家庭もあるだろうけど、引っかかった」
……僕は、僕は。
「……十五年前、君の住む街で事故があった」
「え、あ」
「調べたんだよ。小さな記事だったけど、新聞にも載った」
事故──。
頭の中で、また〝ヒロ〟の姿が再生される。
縁側で、ボールを追いかける黒い背中。〝白い〟首輪。笑い声。
──笑い声?
「用水路に落ちたのは、猫じゃない」
僕じゃない。誰か他の、男の子の声が混ざっている。
もう一人、そこにいた。
名前は──。
「マサ〝ヒロ〟くんだよ。君と同じ保育園に通ってた」
頭の中で急激にイメージが切り替わる。夏の日差し。塀の上。伸びた手。
マサヒロくんの赤いチェック柄のズボンを掴もうとした、僕の手。
……そうか、そうだったんだ。
心臓が痛いほど脈打つ。呼吸が苦しくなる。記憶の靄が晴れ、僕はようやく思い出した。保育園のころ、近所に住んでいた幼馴染。よく、うちの庭で一緒に遊んだ男の子。マサヒロくんの家は猫を飼っていた。額に三日月のような白い模様のある黒猫だった。
事故は夏の日だった。柵の向こうに猫が逃げて、僕らは必死で追いかけて、マサヒロくんが用水路に落ちた。僕は泣きながら何度も名前を呼んだ。でも返事はなかった。
「僕は、ヒロを殺したことを隠してたんじゃない。マサヒロくんを……」
僕はサークル室のテーブルに頭から倒れこんだ。意識を失いたかったのに、できなかった。
「記憶ってのは、ずるいんだ。見たくないものを上手く隠してしまう」
マサヒロくんの死を受け入れられなかった僕は、彼の面影を、飼い猫の黒猫にすり替えてしまった。そして全て忘れようとしたんだ。でも、罪悪感までは消せなかった。それはやがて思い出と混ざり合い、記憶そのものを歪ませていった。
「じゃあ、あの路地裏で出会った黒猫も僕の妄想ってことか……」
「違う。その猫はきっと、マサヒロくんだよ」
成瀬は、ソファから立ち上がった。
「そう思ったほうが嬉しいだろ」
黒猫が横切るのは不吉な予兆
──魔女の使いがもたらす警告。
〝君のせいじゃない〟
そんな言葉を、僕はどこかで待ち続けていたのかもしれない。




