掻痒
僕は自分の部屋にいる。と思っている。
でも、すべてが違う。時計の針は止まり、窓の外は漆黒に塗りつぶされていた。スマホの画面だけが薄く光り、着信音だけが鳴り続けている。蒸し暑くて息苦しい。理由のわからない焦燥感と、焼けつくようなのどの渇きに襲われ、僕は首元を掻きむしった。
痒い……。
気づけば、僕は壁を掻いていた。爪の先に、薄い壁紙の破片が引っかかる。
指を食い込ませて、それを剥がす。
スマホは振動で少しずつ移動しながら、依然として鳴り続けている。
もう一枚、また一枚と、夢中になって壁を剥がしていく。
痒い。痒い。痒い……。
露出した壁の下地に、無数の”目”が現れていた。描かれた目。焼きつけられたような、赤黒く潰れた目玉たち。瞬きひとつせずに、黙って僕を見つめていた。スマホが止まる。ふいに訪れた静寂に引きずられて、僕はスマホの画面を見た。そこにも目があった。目はぎょろりとこちらを見て、赤い涙を流した。
◇
スマホのアラームが、無感情に鳴り続けている。寝ぼけながら、僕はそれを解除した。一瞬、スマホの画面に“赤い目”が映った気がして、息を飲む。今朝は二度寝を楽しむことはできそうにない。刻一刻と失われていく悪夢の記憶は、異様な脱力感だけを残していた。
カーテンを締め忘れた窓から朝陽が狭いワンルームに差し込んでいる。汗でベタついた首元を乱暴に掻く。
「あちぃ」
たまらず声になる。今日はあと何度、この言葉を吐き出すのだろう。蒸し暑さに耐えきれず、窓を開ける。掌みたいな雲が太陽を鷲掴みにしている。その指の間から溢れる光の雫が、僕の住む街をまばらに濡らす。蝉は泣きわめき、植物たちによる光の争奪戦は激化していた。
つまり、夏だ。ムカつくほどの。
ぼーっと雲の流れを眺めていたが、打たれたように動き出す。朝の時間は貴重だ。学生の本分は、勉学なんかじゃない。モラトリアムの悪魔に魂を売り、人脈形成という免罪符を首から下げて、アホみたいに遊び回ることだ。そのためには同じくらい必死に金を稼がなければならない。夏休みに休んでなんかいられないのだ。窓を閉めて、ドタバタと朝のルーチンをこなす。朝食はとらずに家を出た。ぎりぎり、いつもの電車に間に合いそうだ。
駅構内で交差する人々は、まるで獰猛な肉食獣から逃げ惑う草食動物の群れのようだった。誰かの犠牲の上に成り立つ、無意識の整列。インパラの動きで彼らを避けながら、いつもの時間、いつものホーム、いつもの場所で自分も同じように列に並ぶ。周りの連中もよく見かける顔ばかりだ、誰も彼も疲れた顔をしている。向こう側にいけるはずもないのに、必死にスマホの画面を叩いている。
そんな灰色の景色の中に、僕の目は色彩を捕らえた。ゆっくりとこちらへ近づいてくる白いワンピースの女性。その髪は、ビルの壁に反射したオレンジ色の太陽光に透かされて、赤く輝いていた。細い髪の一本一本にも血液が通っているかのようで、美しいと思った。
浅羽 霞海だった。学部は違うが、同じ大学の同期だ。絵を描くことが好きで、バイト代のほとんどを絵の具やキャンバス代に充てているらしい。学部が違うから授業で会うことはないが、偶然、同じカフェでバイトをしていて、それがきっかけで話すようになった。
「おはよう。同じ電車だね」
僕の挨拶に霞海は一瞬ハッとし、やがてその表情はアルカイックスマイルに変化した。イヤホンを外すために髪をかき上げた首元には汗一つかいていない。霞海はこの真夏に凛とした涼しさをまとっていた。
「おは。どうしたの、その首」
霞海は珍しく目を丸くして、僕の首元を指差した。意味が分からず反射的に差された箇所を触る。ひりつく痛みが走る。
「ああ、これ。朝から痒くて掻き壊しちゃったみたい。汗だくで寝てたから、”あせも”かな」
「痛そう」
そう言いながら霞海は笑った。朝から爽やかな笑顔を見ることができて、僕も首を掻きながら一緒に笑った。霞海はせせらぎのように清涼だ。朝の殺伐とした喧騒の中で、僕らだけは平穏だと思えた。
◇
バイトが終わって店を出ると、夕方の街灯りが僕と霞海を包み込んだ。コンクリートの路面から立ち上る熱気が足元にまとわりつく。僕はアイスコーヒーの空きカップをコンビニのゴミ箱に放り投げた。霞海はそれを見て、すこし眉をひそめる。
「最近、ちゃんと寝てる?」
僕の横顔を覗き込む霞海に、不覚にも胸がどきりと跳ねた。
「寝てるよ……たぶん。変な夢見るけど」
「ああ、今朝言ってたね」
しばらく、言葉もなく並んで歩く。ベビーカーを押す若い母親が、スマホを見つめながらつまらなそうに通り過ぎていく。
「シフト、増やしたよね。サークルは?」
何気なく聞いたつもりだった。けれど、霞海はうつむく。
「サークルはちょっと色々あってねぇ。あと、あんまり、家にもいたくなくて」
「あ、そっか。……ごめん」
霞海は顔を上げた。髪の影で表情は読めなかった。
でも、口元だけでかすかに笑った。
「おつかれ。またね」
信号が変わる直前、彼女は足早に交差点を渡っていく。僕は、しばらく歩道に取り残されたまま、その背中を見送っていた。やがて霞海の姿が雑踏に紛れて見えなくなってしまうと、不意に胸がざわついた。今の出来事すべてが、霞海が、僕の妄想だったんじゃないか。そんな根拠のない不安が、影のように僕にしがみついていた。
◇
「また、霞海さんを誘えなくて、代わりに俺を呼んだんだろ」
成瀬は、牛丼に紅ショウガを山のように盛りながら言った。
「そんなんじゃないよ」
僕と成瀬は、行きつけの牛丼屋にいた。行きつけといっても、二人の家から一番近いというだけだけど。
「でも、サークルについて霞海さんは言い淀んだんだろ? つまりは人間関係に問題があるってことだ。おめでとう、たとえ、彼氏がいたとしても、うまくはいってないぞ」
「だから、違うって」
「正直になれよ、子供じゃないんだから。……ただ、家にも問題ありってのは、ちょっとか」
僕は紅ショウガの鮮やかな赤をぼんやり見つめながら、言葉を選ぶ。
「家は……まあ、複雑なんだろう。一人暮らしをやめて、実家に戻ったらしいし」
「実家に戻ったのにシフトを増やしたのか。これは何かあるな」
また成瀬の悪い癖が出た。
「そうやってすぐ詮索するのはよくないぞ。家庭の事情は特に、だ」
僕は無意識に首元を掻いた。成瀬は眉をひそめる。
「真っ赤だぞ。毒虫にでも刺されたのか?」
「いや、痒いんだけど、どこが痒いのかわからないんだよね」
「それ、脳の病気かもしれないぞ」
「怖いこと言うなよ。たまにあるだろ」
「まあ、あるっちゃあるな。他に症状は?」
「ないよ。たまに悪夢を見るくらいかな」
「悪夢?」
僕は今朝見た夢の内容を成瀬に話した。壁を掻きむしり、無数の目に囲まれる、あの悪夢を。成瀬は牛丼を頬張りながら話を聞いていたが、聞き終わると神妙な顔つきで言った。
「ただの悪夢じゃないな。それは”呪い”だ」
また始まった。成瀬は何でもオカルトに関連づけては、人を翻弄して楽しむという悪癖がある。なにやらまくしたてていたが、僕は聞き流して、さっさと牛丼をかきこんだ。
「とにかく、また夢を見たら教えてくれ」
そう言って、成瀬は夜の街へと消えていった。僕はひとり、次こそは霞海を誘おうと密かに誓い、家路についた。
◇
僕は大学の大教室にいる。
何かがおかしい。講義はもう終わっているのに、誰も帰ろうとしない。
ただ、皆がうつむき、机の上に置いたスマホを、凝視している。
僕も見てみる。画面は真っ暗だ。
指で触れると、わずかに光り、何かが映った。
──“目”だった。
ひとつだけ。大きく、赤黒く、僕を見返していた。
気づくと、教室の全員が僕の方を向いていた。目も鼻も口もなく、顔の中心にぽっかりと、黒い空洞が開いている。彼らは一斉にスマホを掲げ、画面に映った”目”で僕を見る。シャッター音が次々と鳴り響く。
眩しさ。焼かれるような視線。
首が、腕が、背中が、次々に火傷のように熱を帯び、ひりつく。
──痒い。
逃げようとするが、足が動かない。
机に置いたスマホが鳴った。画面に映っていたのは──
霞海だった。
叫び声で目が覚める。それが自分の声だと気づく。室内は薄暗い、壁掛け時計は三時を指していた。ひどく蒸し暑かった。意識がはっきりとしてくると、猛烈な痒みが襲ってきた。乱暴に体中を掻くが、一向に痒い場所が見つからない。確かに痒いのに、どこを引っ掻いてみても、治まらないのだ。
僕はたまらず唸り声をあげる。さっきまでの悪夢など、もう頭にはなかった。のたうち回るうちに、足がスマホにぶつかった。その瞬間、妙な感覚が全身を駆け抜けた。一瞬、何が起こったのかわからなかった。スマホを拾ってそれに気がついてからも、意味がわからなかった。僕は一心不乱にスマホの画面を擦った。”痒い場所”を見つけたのだ。
◇
翌朝。蝉の声で目が覚めた。
目が覚めたのは確かだけど、しっかり眠れていたわけではなかった。あんな体験をしてしまったら誰しもそうなるだろう。痒み自体は治まってくれたが、いつまたスマホが痒くなるのか不安でしょうがなかった。おそるおそるスマホを手に取る。まだ自分の皮膚を触っているような感覚がして、思わずベッドの上に放り投げてしまった。
そのとき、スマホの画面が光って着信音が鳴った。成瀬からだった。
僕は重たい頭を振りながら、思い切って画面をスライドさせた。
「おはよう。サークル、一緒に行こうぜ」
「……また悪夢を見た」
「お、マジか。タイミングがいいな。まだ幻の痒みはあるのか?」
「それが……見つけたんだよ、その場所を。スマホだった」
スマホの向こうで成瀬が息を飲むのがわかった。しばらく何やらガサゴソとやっていたが、
「おもしろい。サークルはサボるぞ、これからそっち行くわ」と言って通話を切った。
タイミングがいい? おもしろい? じゃないよ。僕は困ってるんだ。頭の中で、より厄介なことにならなければいいなという不安と、こんなことを話せるのは成瀬しかいない、という安心感が戦っていた。
昼すぎ。インターホンも鳴らさず、成瀬がやってきた。
「まあ、安心しろ、呪いだ」
開口一番、成瀬はそう言った。『お前は呪われている』と言われて安心するのは、成瀬くらいだ。僕はあらましを話した。夢のこと、目のこと、目覚めたときの痒み、スマホを触ったときの感覚──。成瀬は聞きながら部屋の中を見回していた。話の内容より、壁や家具の方が気になるという様子だった。
「”目”がヒントだ。必ずどこかにあるはずだ」
成瀬は、ベッドの下や、枕の下、棚の裏、コンセント周り、換気扇のカバーまで、細かく確認し始めた。
「あるはずって、何があるんだよ」
「誰かを呪う方法は大まかに二つだ。相手の所有物を奪うか、自分のものを相手に押しつけるか。呪いたい相手の依り代か、もしくは、呪いを受信するアンテナだな。君の場合は、おそらく後者だ。アンテナが必ずどこかにあるはずだ。リュック見せろ」
成瀬は僕のリュックのジッパーを開けて逆さにして振る。バサバサと中身が床に散らばるが、特に変わったものはない。
「あと、夢に霞海さんが出てきたといったな。なんでだ?」
「そんなこと知るかよ。まあ、この前、バイト帰りにちょっと気まずい会話したからかもな。SNSでもそっけないし」
「素直になれよ。スマホから君を見てたんだろ? つまり、君はA子に見てほしいんだよ」
成瀬は玄関に移動して、ドアポストの蓋を開ける。ため込んでいたチラシが玄関に散らばる。
「その願いは、叶うかもしれないぜ。あったぞ」
成瀬はチラシの束の中かから、一枚の紙をつまみ上げた。ハガキくらいのサイズで、手作りの和紙のような質感だった。
その真ん中に赤黒い毛筆で”目”が描いてあった。
「うわ、きも、なんだそれ」
僕は思わず、両手をさすった。鳥肌が立っていた。
「典型的な監視の呪印だ。呪いのアンテナだよ。夢に出てきた”目”はこれの暗示だ。見張られてるんだよ」
僕は息を飲んだ。
「そんなこと……誰が……」
「見当はついてる」
成瀬はそう言って、呪印の描かれた紙をテーブルの上にそっと置いた。
「は? 誰だよ」
「まあまあ、そう焦るなよ。ところで、最近、悪夢と痒み以外に変わったことはなかったか?」
「成瀬が気持ち悪い絵を僕の部屋で見つけた」
「それ以外。特にスマホに関わることで、なんかないか?」
「スマホに関わること……」
僕は机に置いてあるスマホを見つめた。また痒くなりそうで、一瞬だけ体が震えた。
「あ、そういえば、非通知の着信があった」
「出たか?」
「一度だけ出たけど、無言だったからすぐ切ったな」
「ちょっと見せろ」
成瀬は僕のスマホを手に取って、暗証番号を入れ、画面を開く。
「ちょ、ちょっとなんでパス知ってんだよ」
「まあまあ、いいじゃん。えっと、不在着信が定期的にあるな。どれも最近だ」
「そういえば最近多かったかもな」
「十中八九、この電話をかけたやつは呪者だろう。呪印のアンテナと、スマホをリンクさせたんだ」
「だから、そいつは誰なんだよ。わかってるんだろ」
「まだ確証はないよ。ただ、ヒントは出した。君は知らない方がいいと思うけどな」
僕は成瀬のゲームに乗る気になれなかった。真夏のワンルームは暑いのに、止まらない鳥肌が不快でしょうがない。
「とりあえず、しばらくスマホを預かるぞ。呪いを解いてきてやる。原因はわかったんだから心配すんな」
成瀬はそう言うと、リュックから古そうな木箱を出した。蓋を開けると、中には何やら黒くて気味の悪いものが入っている。髪の毛のようにも見える。
「なんだよそれ」
「解呪機。手作りだぞ。ここにスマホを隔離して呪いを解く。すぐ痒みはなくなるだろう」
「スマホがないのは困るよ。どれくらいの時間で効果がでるんだ?」
「それは君次第かなあ。呪いかスマホゲーか選べ。よしわかった」
成瀬は僕の答えを聞く前に、スマホを箱に入れた。そして、台所のコンロに火を点けると、呪印の描かれた紙をさっと翳して、皿の上に移した。紙は一瞬で炎に包まれ、黒い燃えカスだけが残った。成瀬は、慎重に灰を崩して、それも箱の中に入れた。スマホが灰にまみれる。
「おい、壊すなよな」
「大丈夫だよ」
成瀬は木箱の蓋を閉じると、南京錠を掛けてしまった。
「よし、とりあえずはこんなもんだ。しばらくは痒みがくるかもしれないけど我慢しろ」
「本当にこれでいいのか? スマホがないと不安だよ」
「じゃあ、南京錠の鍵は君に渡そう。これで君しか箱を開けられない。呪いが解けたら、箱を持ってくる。大丈夫だよ、必ず治る」
自信満々な成瀬の言葉に少しだけ安心する。
「呪いをかけたやつがはっきりしたら、教えてくれよ。なぜそんなことをしたかだけでも聞きたい」
「いいだろう。ただし、条件がある。霞海さんをデートに誘え」
意味がわからず、僕は絶句した。やっぱり成瀬にもてあそばれているだけなのかもしれない。
「何言ってんだよ。ふざけてんのか」
「俺は本気だぞ。スマホは使えないから面と向かって誘うんだぞ」
成瀬は真剣な表情を作った。「俺は俺で忙しくなるぞ」などと呟いて、部屋を出て行ってしまった。事態は好転しているのか、悪化しているのか、どちらにしろ動き出したことには変わりない。
◇
誘った。間違いなく、僕は霞海を食事に誘ったのだ。場所はバイト先のカフェで、シフト後にそのまま店で軽くパスタセットを食べるだけだけど、誘ったことには違いない。霞海は少しだけ迷って、僕の誘いを受けてくれた。明らかに動揺した僕は、バイト中に何度もミスをして、店長に注意されたが、まったく気にならなかった。
冷房の効いた店内、制服から私服に戻った霞海は、僕を見てふっと笑う。白いブラウスにカーキのロングスカート。いつもより大人っぽく見えた。夜番のバイト仲間がにやにやと僕らを見ている。
「ごめん。やっぱり店変えたほうがよかったかな」
情けないセリフを吐いたような気がして、すぐに後悔した。そんな僕の表情を察してか、霞海は
「ほかの子たちも、たまに残ってるし、別に気にしなくていいよ。なんか恥ずかしいけどね」と、また笑った。
窓から見える外の景色は、夏の夕暮れ。オレンジ色のシルエットだけの雑踏は、鮮やかに輝いて見えた。霞海はグラスの水に、口をつけながら、ちらっとスマホを見る。それから、ゆっくりと僕に目を戻した。
「そういえば、スマホ持ってないよね。どうしたの?」
「あーちょっとね。壊れちゃって修理に出してるんだ。なくてもなんとかなるもんだよ」
「そうだよね。みんなスマホばっかり見てて、それが普通になってて、ちょっと怖いっていうか……変だよね」
霞海はうつむいてフォークでサラダをもてあそぶ。西日に照らされた横顔は、印象派の肖像画のようだった。僕は、見とれていた時間の言い訳をするように、
「たぶん、覚えてないと思うんだけどさ、一年の頃に、霞海に会ったことがあるんだよね」と、言った。
「え、いつ? バイト始める前だよね」
「うん。大雨が降った日で、三号館の裏で傘を貸したんだ」
「……そんなことあったっけ。ごめん、覚えてないかも」
「いや、いいんだ。僕の記憶違いかもしれないし」
「でも、知らない子に傘を貸すなんて、カッコイイことするじゃん」
「そうかな。僕がやっても気持ち悪いだけだったよ、たぶん」
あの日、僕は霞海に傘を貸した。それからずっと霞海を覚えていたから記憶違いなんかじゃない。忘れられていたことはショックだったけど、無理もない。彼女は泣いていたから。
「実家に戻ったんだっけ。一人暮らしってやっぱ大変だよね」
話題を変えるために、あえて明るく言った。
「私は一人がよかったんだけどね、家庭の事情でね」
しまったと思った。僕は何度同じミスをするんだ。家庭の事情なのはわかっていたのに、また話を振ってしまった。彼女は話したくないんだ。
「あ、あのさ、もしよかったら、また今度さ……」
口にしてから、こんなに脈絡のない誘い方はないと思った。フォークを握る手に汗が滲む。霞海は、少し驚いたように目を見開いたあとで、表情をやわらげた。
「うん。……私も、また話したいかも」
僕はとにかく頷いた。あまり言葉を足したくなかった。
店内に流れるジャズピアノの旋律が、軽やかに変調する。窓の外、夕焼けの輪郭がにじみ、ネオンがじわじわと明るさを増していく。
霞海の目がふらっと陰った気がした。
「でも……」
彼女が言いかけて、ふいに黙った。
「ううん、なんでもない」
気になったけど、聞けなかった。
その後の会話はあまり覚えていない。ただただ、ずっと夢の中にいたような気がしていた。いつも感じていた、彼女が僕の妄想の産物なのかもしれないという不安は、より非現実的な現実によってゆっくりと塗りかわっていった。
帰り道。僕はスマホを持たない手のひらをポケットの中でぎゅっと握りしめながら、目に焼きついた霞海の横顔を反芻していた。やっと誘えた。誘ってよかった。周りに誰もいないことを確認してから、僕は、地面を蹴って、軽く飛んだ。
◇
日が経つにつれ、悪夢も痒みの症状も緩和していった。二週間もすると、ほとんど消え失せていた。部屋のポストに新しい呪印が投函されることもなく。スマホを持たない生活にも慣れて、代わりに文庫本やメモ帳を携帯するようになった。待ち合わせだけが不便だったけど、バイトも、サークル活動にも、支障はなくなっていった。今までどれだけスマホに依存していたのかがよくわかった。あれから霞海とはデートには行けていなかったけど、バイト先では一緒に楽しく働けていた。
成瀬は、もう少しだけ待てと言って、まだスマホを返してはくれなかった。霞海をデートに誘うという条件も満たしたのに、呪者も教えてくれないままだった。だけど、そんなこともあまり気にならないくらい、夏の日々が充実していた。
ある日のバイト終わりだった。
閉店作業を終え、店を出る。いつもより少し遅い時間。人通りもない。湿った夜風が肌にまとわりつくようだった。スマホがないから、音楽も聴けない。夜の街は、さまざまな音で溢れていることを再認識する。
交差点の信号が点滅を始める。僕は軽く小走りになった。
そのときだった。背中にわずかな衝撃が走った。体が揺れて、視界の端がぼやける。
誰かに──押された?
踏み出しかけた足が縁石に絡まり、体勢を崩す。車のヘッドライトが目の前に迫る。けたたましいクラクションと、ブレーキの軋む音。咄嗟に地面に手をついて転がるように避けた。腕と、膝に鋭い痛みが走る。運転手が何やら怒鳴って、すぐに行ってしまった。
僕はすぐに後ろを振り返った。店の角を黒い服装の人物が曲がったのが見えた。
街灯の灯りにその横顔の残像を見た気がした。
いまさら心臓がはちきれそうなくらい鼓動している。背中がじっとりと汗ばむ。
……なぜだ。そんなはずはない。
頭の中で警報のようなノイズが鳴る。その音はスマホの着信音。呪いの目のイメージ。
……いや、でも、あの横顔はたしかに……。
現実の輪郭が滲み始めていた。スマホを持たない手のひらが、また痒くなる気がした。
◇
「それは霞海さんじゃないよ」
黙って僕の話を聞いていた成瀬はため息をついた。サークル室の窓から見える大学構内に、学生はほとんど歩いていない。
「なぜそう言えるんだ。僕は確かに見たんだ。あれは”霞海”だった」
昨日の夜、僕を車道に突き飛ばして逃げた人物の横顔……。それは霞海だった。僕は混乱した。そして、そのつじつまを合わせるために、一つの仮説を立てた。それをぶつけるために、成瀬をサークル室に呼び出したのだ。
「霞海さんが君にそんなことをする理由がないじゃないか。それとも何かしでかしたのか?」
「霞海とはうまくやってるよ。でも、あれは霞海だった。つまり、霞海であって霞海でないんだ」
「どういうことだ?」
「僕は最近の彼女にずっと違和感があった。何かを隠していたし、それを恥じているように感じた」
「ふむ」
「最近、”家庭の事情”で実家に戻っていた。そして──僕の呪いが始まった」
「霞海さんと君の症状が関係してると?」
「霞海には……別の人格があるんじゃないか? そいつが僕に呪いをかけたんだ」
「……」
「僕の奇妙な症状と、不在着信や、呪印や、不審者の影が現れた時期と、霞海が実家に戻った時期が重なる。きっと治療のために家族の元に戻ったんだ」
成瀬はあからさまに困った顔した。
「考えすぎだよ。仮に君の言うとおりだとして、なんでその人格は君のことが嫌いなんだ?」
「……わからない。でも、もしかしたら……俺が、昔、何かしたのかもしれない。霞海は僕が傘を貸したことを覚えていなかった。あの時にはもう始まっていたのかもしれない」
「つまり、納得できる理由はないんだな」
「でも、そうとでも考えないと、説明がつかないじゃないか! そうじゃなかったら……」
このとき、僕は自分の中のもう一つの考えに気がついて、言葉に詰まった。霞海と会うといつも感じていた違和感の正体。僕の頭の中だけの違和感。
「そうじゃなかったら……全部、僕の妄想……霞海なんてはじめから……」
「やれやれ。そうなっちまうか。まったく余計なことをしたな」
成瀬は大きくため息をついて、リュックから箱を取り出した。南京錠で施錠された、呪いを解くための箱。
「鍵は持ってるよな。もう症状も悪夢もなくなったんだから、スマホ返すよ」
僕は不意を突かれたが、スマホは返してほしかったので、黙って財布から鍵を出す。
「あと、呪いをかけた人物が誰かも教えるよ。本当はそのつもりはなかったんだけど、こうなってしまったらしょうがない」
「霞海のもう一つの人格じゃないのか? 本当に霞海は存在するのか?」
「おいおい、しっかりしろよ。せっかく呪いが解けたってのに、今までの苦労が無駄になるぞ」
成瀬は僕から鍵をひったくると南京錠を外して、中のスマホを取り出した。表面に付着してる灰などを払い落とす。
「君を呪っていたのは、霞海さんの”双子の姉”だよ。ストーカー行為にとどまらずに殺人未遂までするとは、計算外だったわ」
「双子……だって? 霞海に姉がいたのか。でも、どうして」
「どうして君を呪ったのか、ってこと?」
成瀬はスマホをテーブルの上に滑らせながら、淡々と答えた。
「ストーカーの考えることはよくわからんよ」
「違う。どうして成瀬にそれがわかったんだ」
「まあ、それは企業秘密だけどさ、呪いは電波みたいなもんなんだよ。逆探知可能ってことさ」
そんなことを信じるほど僕は馬鹿じゃなかった。それに成瀬に霊感なんてあるはずがない。どちらかといったら詐欺師に近い。悪夢と呪印がなきゃ呪いなんて初めから信じちゃいなかった。僕は必死で思考を加速させる。
「まさか、その霞海の姉に会ったのか?」
「会ってないよ。必要ない」
初めて悪夢の話をしたとき、あの牛丼屋で、成瀬は『それは呪い』だと断言した。僕が霞海を夕食に誘えなかった日だ。
「僕の部屋で呪印が見つかった日、電話で『タイミングがいい』と言ったな。あれはどういう意味だ?」
「そんなこと言ったかな」
「僕が『A子に見られたいと思っている。その願望は叶うかもしれない』とも言った」
「……」
「あのとき、すでに呪者の見当はついていたんだよな。もうすでに霞海の姉に会っていたんだな」
「そんなわけないだろ。また考えすぎだよ」
成瀬は箱の中身をゴミ箱に乱暴捨てると、視線を合わせようとせずに、リュックに箱を入れてジッパーを閉めた。
「霞海さんについて少しだけ調べたことは認めるよ。でも、君が、霞海さんに惚れてるのに行動に移さないから、けしかけただけだよ。デートに誘ってよかっただろ」
「話を逸らすなよ」
「信じないなら、これから霞海さんの姉に会いにいったっていい。流石に殺人未遂は見逃せないしな」
「いや、それは……」
「いいのか? まあ、任せろよ。呪い返しをして、そんな思い切った行動はできないようにしてやるよ」
僕は成瀬に何も言えなかった。もう少し考える時間が必要だった。久しぶりにスマホを手に取る。あの夜に感じた奇妙な感覚はどこにもなかった。
◇
バイトが終わって、僕は霞海に声をかけた。食事ではなく、駅まで一緒に帰ろうと誘った。霞海は快く「うん」と言ってくれて、帰り道のコンビニでコーヒーを買い、小さな公園のベンチに並んで座った。生ぬるい夜風が、それでも、心地よく感じられた。
「スマホ、直ったんだね」
霞海がそう言って、僕の手元に視線を落とした。
「ああ、かなり待たされたけどね。でも、おかげでかなり依存してたんだなって気づいたよ」
「うん……わかる。私も、最近までスマホ見るのがちょっと怖かった」
街路樹の影が静かに揺れ、近くのマンションの灯りが、夜の空気に霞んだ。
「最近、ちょっと元気なかったよね」
「……実家に戻ったのはね、姉のせいなの。精神的にちょっと不安定でね、家族で支えようってなったの」
霞海は缶コーヒーを手のひらで包みこんで、ぽつりと言った。
「姉さん、ちょっと……怖いくらい執着するところがあって。だから、その原因から離しておかなきゃいけなかったの」
「みんなそうだよ。きっと、自分とちゃんと向き合うことが怖いから、ほかの何かに依存してしまうんだと思う」
ほんの少しの沈黙。その沈黙の底に沈んでいたのは、霞海がずっと隠していた“家庭の事情”の一端で、僕が追いかけ続けてきた答えでもあった。
「ありがとう。話してくれて」
「なんでお礼なんか言うの。変なの。……私たちね、双子なんだ。姉さんも同じ大学に通ってたんだよ。すぐ辞めちゃったけど」
「へぇ、そうなんだ。双子だと講義で代返を頼まなくていいから便利だったでしょ」
「やだな。そんな漫画みたいなズルはしないよ」
霞海は笑った。ほんの一瞬だけ、あの夜、僕が見た“もう一人”の影と、彼女が重なったような錯覚がした。
僕は、それ以上は何もきかなかった。霞海の姉が僕のストーカーで、呪いを行っていたかどうかなんて、もうどうでもよかった。霞海と一緒にいる、いまこの瞬間が続いてくれればいいと思った。
◇
夏休みが終わったというのに、大学には学生の姿が少なかった。みんな、最後のあがきをしているのだろうか。相変わらず厳しい残暑の真っ只中で、僕の肌は真っ黒に日焼けていた。
スマホに触れられなかった間に、いくつかのメッセージや着信が届いていた。けれど、その中に不審なものは見つからなかった。あの突き飛ばし事件以来、夜道を歩くが少し怖かったけど、不審者の影も、身体の不調も、何ひとつ現れなかった。僕は完全に元の生活に戻っていた。いや、きっと少しだけ前進している。霞海の笑顔を見るたびに、そう思えた。
大学の学食。いつものたまり場で、僕と成瀬は溶けるように座っていた。クーラーが誘蛾灯で、僕らはそこに集まる虫みたいだった。
「その後、新しい症状はないのか?」
成瀬がジュースのストローをくわえたまま、こちらを見ずに言った。
「何もないよ。しいて言うなら、日焼けが痛いくらいかな」
「そっか。よかったな」
言葉とは裏腹に、つまらなそうな口ぶりだった。
「霞海さんとは進展あったのか?」
「なーんもないよ。たまにバイト仲間で遊ぶことはある」
「俺も誘えよ。霞海さんに紹介してくれ。同じ大学なんだし」
「嫌だね」
笑いながら返すと、成瀬も肩をすくめた。
「でも、結果的に僕の症状を治してくれたことは感謝してるよ」
「あー、呪いの件ね。お礼なんていいよ。まあ、どうしてもっていうなら受け取ってやるけど」
ふざけたような調子だったが、成瀬の目は笑っていなかった。
僕は少し迷ったが、ずっと気になっていたことを口にした。
「やっぱり気になるんだ。どうして霞海の姉は、僕にストーカー行為をしたんだろう」
「うーん。君のことが好きだったんだろ。君が霞海さんを好きなようにな」
「でも……会ったこともないんだぞ」
「君が忘れてるだけなんじゃないか? お姉さんも、この大学にいたんだろ」
「半年くらい通ってたらしいけど、心を病んで辞めたって」
「まあ、そんな遠くない未来に会うことになるかもしれないぞ」
成瀬はそう言って、ストローをずるずると啜る。
「いや、ないだろ。呪いをやめたとはいえ、会うのは……怖いよ」
「呪い、やめてないぞ」
「は?」
反射的に聞き返した僕に、成瀬はわざとらしく眉を上げてみせた。
「呪い返しが効かなかったからさ。逆に、もっと効率のいい方法をそれとなく教えておいた。道路に突き飛ばされるよりはマシだろ? ……まあ、また体に異変が出たら、すぐに教えてくれよな」
冗談に決まっている。そう思いたかった。いつものように、僕をもてあそんでいるのだと。
そのとき、学食のガラス窓を大粒の雨が激しく叩き始めた。
積乱雲がもたらした集中豪雨だった。
窓の向こうでは、学生たちが雨を避けて右往左往している。
その光景を眺めながら、僕は思い出していた。
同じように大雨だった、あの日──。
──泣いてる女性に、傘を貸した、あの夏の日を。