許される記録
誰もが口を閉ざす中、アンダイエはただ立ち尽くしていた。
”まつあき”ーー確かに、そう呼ばれた。
その名前に覚えがないと言えば嘘になる。けれど、それはあまりにも遠く、手を伸ばしても届かない。
ストラスの指が、アンダイエの肩に少しだけ力を込める。
その温もりが、現実をつなぎとめる鎖のようだった。
「……ねえ、トリエステ」
アンダイエがゆっくりと口を開く。
「あなたは、ひょっとするとわたしの事を知っているのよね。でも、わたしはーー自分が誰だったのかすら、もう曖昧で……今のわたしは”アンダイエ・シュティ”であって、それ以前の何かじゃない……はずなのに」
トリエステは、その言葉に対して微かに口元を緩めた。
哀しみとも慈しみともつかぬ表情で、彼女はそっと言葉を返す。
「あなたは、まだ自分の記録の扉を閉じたまま。……でも、きっと開く。その時、わたくしがどうしてこの名でここにいるのかも、分かるようになるから」
アンダイエはその意味を問おうとした。
けれどその瞬間、ティラナが一歩前に出て、二人の間に割って入るようにして言った。
「それで十分よ。記録は、急いで開くものではない。むしろーーその扉が自然と開くときを、我々は待たなければならないのだから。貴女方の姿や名前のようにね」
「…………」
「トリエステ、貴女は仕事の途中ですわね。戻りなさいな」
「はい……」
ティラナに促されて、部屋を出て行った。
出て行ったのを確認すると、こほんとティラナは軽く咳をした。
「さて、カウナス・スゴンダの話に戻しましょうか」
鋭い目つきで微笑むティラナ。
ティラナの紅い瞳が、室内にいる全員を射抜くように巡った。
その唇が、ゆっくりと形を結ぶ。
「カウナス・スゴンダ……その名は、本来ならば記録に存在してはならないはずのものですわ」
低く抑えた声なのに、誰もが息を飲むほどの圧力がそこにはあった。
ストラスでさえ一瞬だけ視線を逸らし、デイジーは咄嗟に胸の前でノートを抱きしめた。
「……しかし、あなた方はその名に触れた。ならば答えなさい」
ティラナはアンダイエに指先を向ける。
「なぜ貴女の手帳には、消されたはずの名が浮かび上がるの?」
アンダイエの胸が強く波打った。
肩に添えられたストラスの手が、ひどく遠く感じられる。
気づけば、指先は震えながらも小さな手帳を開いていた。
そこにはーー確かにあった。
かすれた文字で、けれど力強く。
『わたしは消えていない。あなたが書く限り』
「……っ」
喉の奥が焼けるようだった。
知らないはずの声が、自分の中で共鳴している。
ティラナの瞳が鋭く細められる。
「やはり……記録は伝染する。無垢な者の筆を媒介に、消された声が蘇るのですわ」
「違う!」
思わず声を上げたのは、デイジーだった。
「記録は毒なんかじゃない! 過去を焼き払うためにあるんじゃない! 未来を照らすためにあるんです!」
その叫びが石壁に反響した。
一瞬、誰も言葉を返せない。
だがティラナはすぐに冷笑を浮かべる。
「美しい……けれど、足りないのよ」
彼女の声は刃のように冷たい。




