それでも灯すために
朝の光が完全に昇りきった頃、アンダイエとストラスは、テルミドールにある『熱月の風』の編集部に。
朝の汽車でテルミドールへ戻っていた。
駅前の喧騒とは打って変わって、編集部の中には静かな緊張感が流れていた。
「……さて、書こうか」
ストラスは、自分のデスクに腰を下ろすと、かつて記録係だった頃の癖で無意識にペンを指で転がした。
アンダイエは隣の机に資料を広げ、手帳を開いて万年筆のインクを確かめる。
「”誰かの名を、もう一度灯すために”。見出しはそれでどう?」
「いいな……書こう、過去を塗り潰すためじゃなくて、浮かび上がらせるために」
二人の間には、短くも確かな決意が交わされていた。
ストラスは文頭に自らの名前を記し、続けてこう書き始める——
「かつて、ヴァンデミエール旧市街にあった一つの屋敷。その名を記録に留めることさえ禁じられた家に、一人の令嬢がいた。しかし彼女は死者として登録されなかった。ただ“存在しない者”として、記録から抹消された——」
タイプ音とペンの走る音だけが部屋に響いた。
そこへ、編集部のドアが無遠慮に開け放たれた。
「失礼するよ。保衛委員会だ」
黒い外套を纏った男が数名、熱月の風へとへ入り込み、ひとりの若い女性職員が封筒を掲げた。
「おやおや、今日は直接お越しですか」
主筆のアーネスト・ブレアが出迎えた。
それにアンダイエとストラスも続く。
「この報道案件について、上層から差し止め命令が出ています」
アンダイエが目を見開く。
「どういう……根拠で?」
女性職員は冷たく言った。
「記録保全法第十四条より。今編集中の記事の掲載は、当局の許可が下りるまで保留とされます」
ストラスの手元から、紙面の下書きが回収されていく。
彼女は黙ったまま、外套の職員たちを見送った。
「お早いご対応で。“記録”の毒性ってやつを……こうやって見せに来たのかな?」
ぼそりと呟いた声に、アンダイエは唇を噛む。
「それでも……わたしたちはここまで辿り着いた。なら、まだ手はあるはず」
「そうだな。記事にできないなら……別の方法で名を残す。文字じゃなくても、記憶には残せる」
そのとき、編集部の奥からデイジーが駆け寄ってきた。
「この記事、いまは出せなくても……”読んだ人”はいるんです。編集部の校閲担当、ブルメさんが初稿を読んで……泣いてました」
アンダイエは、ストラスの目を見た。
「記事が出せなくても、名を呼ぶ人はもう現れた。それなら、わたしたちはまだ続けられるよ」
「……ああ」
静かな夕陽が、編集部の窓から差し込んでいた。
失われた名に、ふたたび灯がともるまで——彼女らの闘いは、続いていた。




