消された紋章、記される声
その日の夕刻。
編集部に戻ったアンダイエは、記事の構成を整えた後、紅茶を淹れて席に戻った
「……これで、いいと思う」
原稿用紙の端に、そっとペンを置く。
静かに、しかし確かに記された文字列の一つひとつが、あの老女の語りを包み込んでいた。
ストラスはそれを手に取り、無言で読み進めていく。
やがて読み終えると、アンダイエに向かって小さく頷いた。
「……いい記事だ。あの人の声が、まっすぐに伝わってくる」
「ほんと? ……よかった」
アンダイエは胸をなでおろし、肩を落とすように笑った。
するとその隣で、新聞社の戸をコンコンと小さく叩かれる。
「失礼しまーす。差し入れです!」
現れたのは、デイジーだった。手には紙袋を提げている。
彼女は老女の取材後からさっきまで、アンダイエたちとは分かれて講義を受けていた。
「おお、これは?」
「パン屋さんで少し多めに買っちゃって……もしよかったら、と思って」
彼女は机の上に小さな包みを並べながら、ふとアンダイエの原稿に目を留めた。
「……それ、今朝のあの人の話?」
「うん。話してくれたこと、なるべくそのままに」
デイジーは原稿に目を通すと、思わず小さく息を呑んだ。
「”門の紋章”って……これ、たぶん……」
「知ってるの?」
アンダイエとストラスが同時に尋ねる。
「うん、もしかしたらだけど。……ニヴォーズで見た古い紋章に似てる。記録には残ってなかったけど、講義で配られた資料の”跡地図”に、かすかに描かれてた。前王政時代末期の第二系統ーー”スゴンダ家”の分家筋のものだったと思う」
それを聞いたストラスの眉がわずかに動く。
「スゴンダ……」
アンダイエはその名を聞いて、一瞬目を伏せた。
頭の奥に浮かんだのは、あの夜、涙で滲んでいたトリエステ・スゴンダの姿。アンダイエは彼女が花堂呉羽である事を思い出せなくなっている。
「それ、どこで見たの? まだその資料って……」
「フロレアールの図書館にあるかもしれません。教授もそこにあったのを複製したと言っていましたから。でも、閲覧には許可が必要で……配られたのも講義が終わったら回収されましたし」
つまり、デイジーは今持っていない上、実物を見るのも困難だという事だ。
「デイジーって、図書館の司書とかに知り合いは居るの?」
「まあ、居ますけれど……許可を得るのは別だと思いますよ」
ストラスは立ち上がり、壁の地図に視線を向けた。
静かに、ひとつの仮説を浮かび始めていた。
「ヴァンデミエールのその屋敷、もし本当に”記録から消された家系”のものなら……それを記したら、ただの市民の記事じゃ済まなくなる」
「それでも」
アンダイエの声は、まっすぐだった。
「名前がなくなっても、そこに誰かが居たなら、わたしたちは書くべきだと思う。記者としてーー人として」
ストラスは短く息をついて笑った。
「……その覚悟があるなら、いい記事が書けるはずだ。いいか、アンダイエ。次は調査だ。老女の言っていた門の場所を、実際に見に行くぞ」
「うん!」
アンダイエが立ち上がり、力強く返事をする。
その様子を見て、デイジーも鞄の中からノートを引っ張り出す。
「だったら、私も手伝います。スゴンダ家の紋章、ちゃんと調べてみる!」
紅茶の湯気が、編集部の窓際にふわりと揺れた。
その背後で、テルミドールの空は、夜の帳にそまりつつある。
だが、記されるべきものたちは今、静かに目を覚まそうとしていた。




