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あたしは、ストラス・ラザール

 王宮保衛室を辞めたあと、あたしはヴァンデミエールにあった住居を引き払って、放浪の旅に出た。

 定まった目的もなく、いくつもの街を渡った。


 本名は名乗らず、職も住居も転々とする日々だった。

 記録からも、保衛室からも、自分の記憶すらも切り離したくて、完全に名前を変えることを、考えた事はあった。

 別の名前の人物として、新しく生きるという選択。

 でも、やはりそれは出来なかった。


 彼女が最後に呼んでくれた『ストラス』という名を、捨てるわけにはいかなかった。

 だからこそ、本名を名乗らないという妥協をした。

 行く先々で名乗るのが本名じゃないとしても、あたしは『ストラス・ラザール』だって思い続けた。



 そんなあたしでも、放浪の最中の街で見るたびに気になるものがあった。


 ーー新聞。

 名前もない通りの街角の売店に並んでいたその活字の束は、かつてあたしが”記録”と信じていたものと似て非なるものだった。


 記録室のそれは事実を整えるためのものだったが、新聞には、人の声があった。

 名前のない死者の話。街角の猫。選挙の裏にある取材。

 無味乾燥な報告ではなく、『伝える意志』があった。


 テルミドールの一角、そんな新聞を出している社があると知ったとき、足が勝手に向かっていた。


 ーー”熱月の風”。

 あたしが初めてその名を聞いたのは、放浪を終わりかけの冬だった。



「見学、ですか?」


 編集部の女性が不思議そうにあたしを見た。今思えば、ひどい恰好だった。埃っぽい外套に、疲れた目をして。

 放浪していて、恰好なんて気を配っていなかったからな。


「見学じゃなくて……応募でもなくて……ただ、あなたたちの記事に……助けられた」


 とったにそう言っていた。恥も忘れて。

 すると奥から出てきた年配の編集長が、少し渋い声で言った。


「記録を扱ったことがある目だ。君は元、軍属か?」


 驚いて頷くと、彼は少し笑ってみせた。


「なら試しに一本書いてみな。最初は署名なしでもいい。書き上げたら考える」


 そう言われて、与えられたテーマは『テルミドール駅前南広場にて行われた炊き出しについて』だった。

 あたしはその夜、机の上で震えながらペンを握った。


 何も書けないと思っていた。でも違った。


 あたしの中では、”記録”よりも強い”記憶”があった。あの春の日の光、鉄扉の冷たさ、誰かの笑顔。

 テーマの内容を書き記したあと、記事を末尾にそっと添えた。


ーーあたしは、誰かを記録するためにここにいる。忘れないために。



 翌日、あたしの書いた記事は、編集部の壁に貼られていた。

 そして、編集長が一言だけ告げた。


「名を名乗れ。正式に記者として迎え入れよう」


 あたしは少し迷ったが、やがて帽子を取り、真っ直ぐに彼を見て答えた。


「……ストラス・ラザールです」


 それが、”熱月の風”での、あたしの新しい”記録”だった。


 彼女の記憶とともに、何かを変えていけるかもしれないと、ようやく思えた瞬間だった。


 ……もちろん最初は見習いからだったが、時間をかけて記事を書くようになり、数年が経つ頃には、テルミドールの街を歩けば少しは名前を覚えてもらえるようになっていた。


 それでも、街角で震える誰かを見れば、あたしの手は自然と動く。



 そして年が変わって、そんなに経っていない秋のある日。

 あの日、午前の取材帰りに見かけたのは、薄暗い路地の壁に背を預け、今にも泣き出しそうな……いや、もう泣いていた若い女の子だった。


 見たところ、年は二十歳前後であたしよりも背が高い。

 目元は腫れていて、鼻をすする音が馬車が通り過ぎた後の、ひときわ静かな道に響いていた。


「ぐすっ……どうすればいいんだろう……」


 声に迷いがにじんでいた。


 放っておけなかった。

 記者である前に、人として。……そして、かつて誰かを見捨てた”自分”への償いとして。


「おい、君。大丈夫か?」


 声をかけると、彼女はビクッとしてこちらを見た。

 その瞳にはまだ、涙の名残と戸惑いと、言葉にならない叫びが滲んでいた。


「だ、誰……?」


 怯えるように問われ、あたしは軽く帽子を持ち上げて、少し笑ってみせた。


「……あたし? あたしは、ストラス・ラザール。この街の新聞社の記者をしている」


 そう名乗ると、彼女はかすかに息をついた。

 不安は消えないまでも、少しだけ安心したようだった。


「で、君の名前は? 訊いたからには、答えてもらおうか」


 彼女はしばらく黙っていた。

 唇が何度か動いて、そのたびに出しかけた言葉を飲み込む。


「えっと……ま、ま……」


 そこまで言ったあと、彼女は少し目を伏せる。そして、しばらく間を置いてーー


「ママ?」


 一瞬あたしの眉が動く。


 けれど彼女は、すぐに首を横に振った。違う、そうじゃないというように。


「ううん。……アンダイエ・シュティ」


 その言葉が落ちてきた時、不思議な既視感があった。

 どこかで聞いたような名前。でも、すぐには思い出せなかった。


「そうか。アンダイエっていうのか」


 あたしは頷いて見せる。名前を受け入れること、それは一歩前に進むことだ。


「うん……」


 アンダイエは少しだけ、笑おうとした。

 その顔には、まだ迷いがあったけれども、完全な拒絶はなかった。


「分かった、アンダイエ。だがここに女性一人で不安そうにしているのはマズいから……とりあえずあたしの新聞社へ行こう」


 アンダイエは、一瞬こちらの手元を見てから、こくんと小さく頷く。


 その様子に、あたしは何かが救われた気がした。


 これが、アンダイエとの出会いであった。

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