『熱月の風』3階の一室、そこがぼくの仮住まい
「そういえば、君の寝る場所って無かったな」
「うん……」
当然であるが、アンダイエが住んでいる家なんてこの国にはない。
もしも寝る場所が無かったら、アンダイエは外で寝ることになる。
今のアンダイエは女性だ。
そんな事になったら、すぐに良からぬ輩が来るだろう。
とはいえかつての姿でも小学生男子だったから、安全ではないが……
「ほう、お嬢さんがラザールの新しい助手だね」
奥から初老の男性がやってきた。
パイプを口に咥えていて、いかにも長年執筆とかをしてきた感じである。
「あっ主筆、紹介します。アンダイエ・シュティ」
「シュ、シュティです。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。儂がこの『熱月の風』、主筆のアーネスト・ブレアと申します」
手を差し出してきたので握り返すアンダイエ。
ブレアの手にはペンダコが出来ていて、筆を執ってきたのがはっきりとしていた。
「主筆、アンダイエですが寝るところが無いらしく……三階の空き部屋を使いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ほうほう、それは色々とご事情が……まあ、どうせ使わないのももったいないから良かったらそこで寝泊まりするといい」
「ありがとうございます!」
こうしてブレアの好意によって、寝る場所も決まった。
見知らぬ街で彷徨い続ける事になるかもしれなかったアンダイエは、少し安心したのか疲労をより感じてしまう。
「さて、ここだな」
夜も深まって、テルミドールの街にもようやく静寂が訪れる。
「おじゃまします」
新聞社の三階にある記者寮。
その一室がアンダイエの仮住まいとなった。
部屋はこじんまりとしていて、ベッド、机、棚、そして窓際に小さなカーテン。
木造の床がわずかに軋むが、どこか懐かしい温もりがあった。
「この部屋、あたしが新人だった頃に寝泊まりしていた場所なんだ」
ストラスはそう言いながら、棚から毛布を取り出して投げ渡す。
そして袋に入っていた服を渡す。
服は薄手で寝る際に着るのに最適だ。今のアンダイエにはぴったりのサイズ。
「ほれ、これを。寝間着がないだろ? ちょっと古くて知り合いのだったが”女物”のはずだ」
「ありがとうストラスさん」
「ストラスでいい。”さん”なんて柄じゃない」
「この服の大きさ、確かにストラスには大きいから」
彼女の身長では流石に大きすぎる。
今のアンダイエにとって、ストラスは妹みたいに小さく見えるくらいに。
「うるさいよ」
アンダイエはこのやりとりをして、ちょっとくすっとした。
彼女自身少しずつ、この名前にも、この姿にも馴染んでいるのが分かってきた。
「そういえば、主筆って何?」
「まあ、簡単に言えば編集長と同じ感じだな」
「ふうん、どう違うの?」
「うちの主筆は新聞社のトップでもあるから、より上であることを示すためにさ」
「ありがとう」
「良いさ、じゃあおやすみ」
「おやすみ」
眠りにつく前、アンダイエは隅に置かれていた古い紙を手にして、万年筆を手に取る。
何か書いておかなければならない気がしたからだ。
『今日、ぼくはアンダイエ・シュティとして新聞社に入った。ぼくは記録を始める。失われる前に、忘れたり忘れられる前に______』
続きを書こうとしていたが、何かを思い出しそうになった時、万年筆のインクがぽたりと紙に落ちて滲んだ。
その瞬間に、手が止まって書こうとした事を忘れてしまう。
まるで『その言葉は書けない』と言われたかのよう。
「諦めないといけないのかな」
忘れてしまったために、アンダイエは焦燥感にかられることもなく、万年筆をしまって眠りにつく。
だが、眠る前に気になった事がひとつあった。
「ストラスってどこかで見たことがあったような……」
忘れてしまった中の一つとして、彼女の事だけは知っていた、ような感じがする。どこで会ったのだろうか、見たのだろうか。
ただ大きな出来事じゃないから、片隅レベルで。
しかしながら、それが何だったのか今のアンダイエには、不明であった。