記録官を辞めた日
提出すべき処刑記録は、二枚。
一枚目には、形式的な文言が並んでいる。被収容者番号、処刑時刻、証任名、執行理由。
二枚目には、補足事項として、処刑前夜の異常行動を記している。
『精神錯乱、自傷行為、意識の混濁。それによって処刑時刻の前倒しを行った』と。
どちらにも、彼女の本名は書かれていない。
もう”削除された存在”だから。番号だけで全ては記されていた。
あたしが手を加えた文書も、今となっては整っているように見える。
これでよかったんだ。
記録としては、正しい形になっている。
……そう、なってしまっている。
報告書類の封を閉じる指先が、少しだけ震えていた。
でもそれは、昨夜の彼女の手よりは、温かかったと思いたい。
上司に書類を提出したのは、太陽が昇りきったあとであった。
提出先は王宮保衛室管理係。
部屋には上司と部下だけ。上司の名前はゲオルギオス・ドマング、年輩の男性で、感情の色をほとんど持たない事務官の鏡のような人物。
部下の女性はコルマール・ジュスト。
補佐として、管理室の書記を行っている。
今のところ彼しかこの部屋に居なかったが、この国においては、こうして一人二人しかいないうちに、何人もの名が抹消されていく。
静かに、冷たく。
「これが今朝方の、処刑記録です」
あたしはそう言いながら封筒を差し出す。
声は静かだったが、ほんのわずかに掠れていた。
上司はいつも通り無表情だった。
中身を確認する仕草も、無表情な印刷機のように正確で、無駄がなかった。
「……異常報告も添付済みか?」
「はい。自傷行為ありましたが、軽傷。意識確認後に即時執行へ切り替えました」
その言葉を口にする度、あたしの胸の奥で何かが欠けていくのが分かった。
「了解した」
上司はうなづいて、ジュストに受理印を押すよう指示した。
これでもう、記録上、彼女は存在しない。
記録係に戻ってから、あたしは机に置いてある手帳を見つめた。
その手帳の裏表紙には、小さな白い石が貼り付けてある。
彼女が最後に『これはわたくし』と言って渡してくれた。
あの春の石。
……この石を凶器には使わなかった。それだけで、あたしはほんの少しだけ、救われた気がした。
書類上は、石のことなど一言も記していない。
あれは、あたしの中だけにある”記憶”で、”記録”じゃない。
だからこそ、これだけは捨てなかった。
この石だけは、あたしが持ち続ける。記録から消された彼女の”証明”として。
それからあたしは、廊下を歩いた。
白壁の庭園じゃないけれども、王宮保衛室の中庭を見下ろせる窓のそばで、ふと足が止まる。
そして小さく誰にも聞こえないくらいの小さな声で、つぶやいた。
「……タンジェ」
名前じゃない、あだ名でもない。
けれど、あたしの中にだけ残った呼び名。
”彼女は本当にいたんだ”と、あたしは言い聞かせるようにもう一度、つぶやいた。
その数日後、あたしは王宮保衛室を辞めた。
理由は記録に残っていない。
辞表には『一身上の都合』とだけ記されている。
けれど、本当の理由はあの夜だ。
彼女に会えなくなっても、この王宮保衛室に居続けることは、あたしにはできなかった。
記録とは、過去を残すもの。
でも、時に未来を消してしまうこともある。
だからあたしは、記録官じゃなくて、”誰かの過去を忘れない者”として、生き直すことを選んだ。




