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最後の面会、春の残響

 独房に向かう階段は、いつになく重たかった。

 靴音さえも、まるで誰かの罪を数えているように冷たく響く。


 地下牢の空気は湿っていて、照明すら霧に包まれているようにぼやけて見えた。

 けれど、そこに彼女がいると知っている。

 それだけで、あたしの手は震えずに済んでいた。


 看守が無言で扉を開く。

 視線が合った。

 ーー彼女はまだ、彼女だった。


「……来てくれたのね」


 その声はとても静かで、音というより、記憶のひだを撫でる風のようだった。

 あたしは黙って彼女の前に座る。

 机を挟んで、向かい合わせで。

 そこまで離れてはいないけれども、心の距離はそれ以上に遠いのかもしれなかった。


「これが最後になるかもしれない」


 彼女がそう言った時、あたしは返せなかった。

 言葉を口にすれば、涙まで溢れそうだったから。


 だから代わりに、布に包んだそれを取り出した。

 春の庭で彼女が拾い、気に入ったと笑った、小さな白い小石。角が少し欠けていて丸っこい、どこにでもあるはずなのに、彼女の手の中では宝石のように見えたもの。


「……持ってきた。あの石」


 彼女は微笑んで「ありがとう」と言った。

 その声が震えているのを聞いたとき、あたしはただ、うなずくことしかできなかった。


 そしてーー彼女が言った。


「……ねえ。あなたは、本当に……わたくしが”それ”を偽造したって、思ってるの? 先日あんな答え方をしちゃったけれど」


 心臓が、打つのを忘れたように止まった。

 彼女の問いは、鋭い刃ではなく、静かな審問だった。

 だからこそ、あたしは嘘をつけなかった。


 ーー小さく、首を横に振った。


「信じてない。でも……記録には、そう書かれていたの」


 それが、あたしにできた最大の誠実だった。

 あの夜、記録を前に震えた手の理由は、いまも残っている。


「記録って、残酷ね……」


 彼女が呟いたとき、その通りだと思った。

 あたしたちは、記録に縛られて生きている。

 でも、記録は決して、真実そのものじゃない。


「……だから、せめて……」


 声はほとんど聞き取れないほどだった。


「せめて、誰かがあなたを忘れないように。誠実なあなたをね。……わたくしがそうするから」


 その時、彼女が微笑んだ。

 春の日のあの庭の笑顔だった。


「なら、あたしは君を忘れない。春の光みたいな君を」


「ありがとう」


 願う事だったら、君の笑顔がこのまま見れたら良いのに。


「ねえ、わたくしの名前……消えちゃうんでしょ?」


「……ああ」


 言葉が詰まりながらも肯定する。


「だから、誰もわたくしの事を覚えていなくても……この石はわたくしの事を知っていると思うの」


「ああ、忘れないと思う。だから大事に持っていてくれ」


「もちろん。わたくしの最期まで、絶対に持っているから。ストラス、最期に貴女と会話が出来て嬉しかった」


「こちらこそ」


「また逢えたら、ね」


 面会が終わるまで、彼女は微笑んでいた。

 明日も明後日もその先も、彼女の笑顔が見れたら良かったのに。


「ああ」


 こうして彼女との会話は終わった。

 処刑の準備のため、もうあたしが再び面会をする事は出来なくなる。

 この面会が彼女との最期の対面。


 明日の朝で彼女はいなくなる。

 でもあたしは、彼女の名を、記録ではなく心で待ち続ける。


 ーーたとえ、それが”改竄”と呼ばれても。

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