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震える手で、記録を消す

 灯りは、いつもより少しだけ黄色がかって見えた。

 記録室の天井灯は、安定して光っているはずなのに、まるで蝋燭のように揺れていた。

 机の上に置かれたのは、三枚の羊皮紙と銀製のインク壷。

 基本的にタイプライターで作成しているが、今回だけは手書きにしたかった。


 あたしは、ペンを取った。

 けれど、指が動かない。

 命令文の定型は暗記している。書式も、判例も、符号の順番すら間違えたことはない。

 それなのに、今だけは……あたしの指は、動こうとしなかった。


 紙が、こちらを見ているようだった。

 彼女の存在が、この紙の上で消えるのを、待っている。


 命令番号:S11ー31946

 対象:※記録分類Eー削除命令付与


 震えたのは、手ではなかった。

 心臓だった。

 それが掌に伝わって、ペンの軸を揺らしていた。


「……命令文を記すとは、こういうことか」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 ただの文書に過ぎないはずなのに。

 この一枚で、ひとりの少女が、歴史から消える。


 あたしが書かなければ、誰かが書くだろう。

 もっと無機質に。もっと冷たく。もっと”職務的”に。

 その方が良かったかもしれない。

 でもーー

 でも、あたしは書く。

 書かなくちゃいけない。


 彼女の最期に、誰かが立ち会わなくてはいけない。

 それがたとえ、ペン先でしか叶わないとしても。


 だから、記す。

 心臓の鼓動に逆らうように、肩を動かし、筆圧を整えて、あたしは書き始めた。



 王宮保衛室命令通達文書

 命令番号:S11ー31946


 命令内容:下記対象に対する行政記録抹消および社会的存在証明の無効化を承認する。

 本命令の執行は、儀礼形式をもって公示され、処置の完了をもって記録の完全抹消とする。


 記


 対象氏名:ーー


 命令発令日時:花月十五日 午前九時

 署名責任者:王宮保衛室 記録係 ストラス・ラザール



 対象の名前は改竄防止の線だけが引かれている。

 もうその名は、王政の記録から削除されるのだから。


 書き終えた瞬間、あたしはしばらく指を動かせなかった。

 ペン先から落ちた最後のインクが、乾かずに滲んでいた。


 あたしの名前だけが、確かにその紙に残っていた。


 ーー彼女の代わりに。




 白壁の独房。

 この部屋は、ほんとうに音がしなかった。

 白い壁、白い床、白い扉。

 照明が淡く灯る以外、何の温度もない。


 あたしは扉の前で深く息を吸ってから、そっと中に入った。


 彼女は、すでに気配にきづいていた。

 椅子に座ったまま、こちらに背を向けていたのに。


「来てくれると思ってた」


 声は、あの頃と変わらなかった。

 白壁の庭で、本を読むような声。


 あたしは何も言えなかった。

 扉を閉め、机の上に書類を無言で置く。命令書の写しだ。


「これが……わたくしを消す紙ね」


 彼女は、ゆっくりと振り返った。

 その瞳は、どこか澄んでいて、覚悟を決めた者の色をしていた。


「どうして……」


 あたしはようやく声を出せた。けれどそれ以上は言葉が出なかった。


「どうしてって、なに?」


「……どうして、逃げなかった?」


 彼女はほんの少しだけ目を伏せてから、静かに笑った。


「逃げたら、あなたが追われる。そうでしょ?」


 あたしはその一言で、背中から膝まで冷たくなった。


「……それを、考えていたのか?」


「うん。ずっと前から」


 彼女は立ち上がると、壁に掛かった小さな鏡を指さした。


「ねえ、見て。わたくし、泣いてないでしょ?」


 そこに映るのは、白い衣をまとった少女。

 首元にかけられた簡素な銀の鎖だけが、彼女の今を示していた。


「……あの許可証、本当に君が偽造したのか?」


 あたしは問いたかった。

 声は低く、震えを抑えていた。


 問いの意図は、報告にはならない。

 これはあたし個人の確認。記録には書かれない。

 ただ一度だけ、彼女の口から”真実”を聞いておきたかった。


 彼女は、静かにまばたきをした。


 その瞳は、泣いても、笑ってもいなかった。


「……本当に聞きたいの?」


「執行されるまでに、知っておきたいんだ」


 あたしは答えた。

 でもそれは、職務のためじゃない。

 あたしが、ただのひとりの人間として彼女に向き合いたかったから。


 彼女は、ゆっくりと首を傾けてからーー


「”本物”って、何だと思う?」


 そう言って微笑んだ。


「わたくしが持っていた許可証が偽物だったとして、でもそれで人を信じさせたなら、それは”本物”なのかもしれないでしょう?」


 答えになっていない。

 でも、それ以上の問いは、あたしの喉に詰まった。


「……あの子と、話をしたかったの。ただ、それだけだったのに」


 それが、彼女から聞いた最初で最後の”真相”だった。

 あたしはそれを、記録しなかった。


「ねえ、ストラス。お願いがあるの」


「……言って」


 彼女は、机の上の命令書に指を添えた。

 そのインクのかすれを見つめながら、微笑んだ。


「書くとき、手が震えてたでしょ?」


「……分かるのか?」


「うん。でも、それでよかった」


「あなたが震えてくれて、わたくし、嬉しかった」


 あたしは、言葉を失った。

 声を出せば、泣いてしまいそうだった。


「ストラス。これから先、誰かを記録するときは……その人のこと、ちゃんと、覚えててあげて」


「……わかった」


「もう一つだけ、いい?」


 あたしは頷いた。


「わたくしとあなたが、会話を交わした白壁の庭。そこにある石を持ってきてほしいの」


 不思議な願いであった。

 いくらでも転がっているであろうもの。


「君はそれで……」


 でも使いようによっては、逃亡したり傷つける可能性がある。


「大丈夫。逃げないから、わたくしは」


 彼女の言葉には、嘘は無さそうだった。


「分かった。丁度いいのを、前日に渡す」


 そろそろ面会終了の時間になる。

 席を立って、扉を開けるとき、彼女は言った。


「……ありがとう。最期まで、わたくしでいさせてくれて」


 あたしは振り返らなかった。

 涙がこぼれる音だけが、白い独房に響いていた。

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