沈黙の回廊
あの頃のあたしは、まだ”正しさ”に酔っていた。
王宮保衛室ーー
その名を口にする者は少なかったし、それを知っている者は、もっと少なかった。
けれど、あたし達は確かにいた。ヴァンデミエールの宮殿の北棟、その地下に連なる記録の回廊。
重厚な鋼鉄の扉の奥で、あたしは”誰かの存在を保つ”ために、そして時に”誰かの存在を消す”ために、ペンを走らせていた。
記録係、査問係、修正係。
王宮保衛室は清濁すべてを飲み込む”沈黙の職場”だった。
あたしは、ストラス・ラザール。
当時はまだ、名誉に飢えていた。
貧民街の生まれでもない。けれど貴族のような出自でもない。
”選ばれなかった人間”が、実力だけで王政の深奥に足を踏み入れた。それが、誇りだった。
「記録に誤りあり。第二副査、お前が確認しろ」
先輩に手渡された一通の報告書。
内容は些細なもの……一人の令嬢の外出許可が”宵の鐘の後”になっている。
ただ、それだけ。
けれど王政において、令嬢とは政治的装置であり、失敗すれば”破滅の兆候”と記されることもある。
あたしは、疑わなかった。
自分の目と耳と記録帳、それだけを信じていた。
それの令嬢ーー
ああ、名前は今でもふとすると口から出そうになる。
けえどそれは許されない。
”ダムナティオ・メモリアエ”ーー記録の破壊のとおり、その対象となった者の名を記すことは、記録係にあるまじき反逆。
あの子は、正しかった。
このあたしにとって、真実よりも、人間としての尊厳を教えてくれた唯一の人だったかもしれない。
「記録係は、感情を持つな」
「命令が正義だ」
「ペンは剣よりも強く、血を流さずに処刑する」
誰かがそう言っていた。
あたしもそう思っていた。
けれどーー
最後に彼女を見たとき、彼女は笑っていた。
ほんの小さく、あきらめたように。
その笑みが、あたしの胸を抉った。
王室保衛室の制服は、重かった。
勲章も記録証も、名誉の証ではなく、罪の重みだった。
あれからあたしは逃げた。
命令を遂行した直後、すべての記録を焼却し、整理し、認印を押し終えた後ーー
辞表だけを、上官の机の上に残して。
誰もあたしを引き留めなかった。
なぜなら、あたしは”何も知らない記録係”だったから。
けれどあたしだけは知っている。
彼女の名を。
彼女の目を。
彼女の最後の笑顔を。
それを抱えたまま、あたしは今、テルミドールで記事を書いている。
記すことで、残すことで、かつて消した何かを償うように。




