わたくしは、トリエステ・スゴンダ
帰っていくアンダイエ。私はただ見送るだけ。
ーー本当にこのままで良いのかな。
あの日々が、遠く遠く、戻れないものになろうとしているのに。
でも守るためにはこうするしかない。
大統領官邸、私は一歩、また一歩とヒールの音を刻みながら、迎賓室へと向かう。
「入ってよい」
迎賓室の前でヴェネト・サランシュ大統領の静かな声が聞こえた。
そのまま中へ。
仮面の笑みを貼り付け、胸元に保衛委員会の徽章を光らせたまま。
「お会いできて光栄ですわ。サランシュ大統領」
「仮面のままで来るとは、やはり君らしいな」
椅子に腰掛けた大統領が、こちらを見ずにそう呟く。
でも私は笑って返す。
「いえ、仮面などつけておりませんわ」
「相変わらず、”演技”の精度は高いようだ。まるで、本当に悪役令嬢になりきっている」
指摘されたとしても、私は演じる。
大統領は私が仮面を付けているのを、見破っている。それでも、それを外そうとは思わない。
「トリエステ・スゴンダは、常にそうであっただけのこと。……仮面も何もありません。これが本当のわたくしです」
でも、そう言ってみせる声が、ほんのわずかに震えていたことに、私は自分で気づいていた。
「それにしても、今日は来客者が多いものだ」
「ほう」
「熱月の風という新聞社の記者が、少々前に来ていた。でも話したのは、記録保全法へ署名をした事に関してだがな」
さっきアンダイエとラザール記者は、大統領と面会していたのね。
記録保全法の署名……確かに署名をしなければ、廃案になる。だから、真意を訊いたみたい。
だけど、大統領の様子からしたら、”大統領”として返事をしたといえる。
「さて、話を戻そう。君の付けている仮面、行く末は砕けるだけ、というのを知っているだろう」
「……それがいつか壊れるとしてもーー誰かのために続けているかなど、今更問う必要もないでしょう?」
私がそう返すと、彼は少しだけ視線を逸らし、グラスに水を注いだ。
……その指先は震えていなかった。
「”誰か”のために生きている者の目を、私は何度も見てきた」
「貴方ほどの人が、見誤るはずもありませんわ」
「理解はしている。だが、容赦はできない」
その言葉に、私の胸の奥に、冷たい水が注がれるような感覚が走る。
ああ、やはりこの人も”見る人間”なのだ。
理解して、共感して、それでもなおーー斬るべき時に躊躇しない、政治家という刃。
だから私は最後まで、微笑を崩さずにこう答える。
「容赦など、求めておりませんわ。……ただ、貴方が歴史の”演者”であるならば、せめて美しい幕引きを選んでいただけるよう祈るだけです」
沈黙が落ちた。
グラスを置いた音だけが響き、やがて彼は一歩だけ近づいて、低く呟いた。
「……君は、やはり”悪役令嬢”だったな」
それは、皮肉でも賞賛でもない。
ただ、確かな”確認”だった。
夜、ヴァンデミエールの自室にて、私はドレッサーの前に腰を下ろす。
私は静かに息を吐く。
鏡の奥に映る顔ーー化粧も崩れかけていて、少しだけ幼く見えるその輪郭に、わずかな違和感を覚える。
自分の顔のはずなのに、どこか遠い他人のようで。
額に手を当てて、深く、息を吸った。
私はまだ、”あの頃の私”を引きずっているのかもしれない。
だけどーー
手元の引き出しを開けた。中にはいつもの手袋。その指先に指を添える。なめらかな布地。
つい先ほどまで、その中に手を滑り込ませ、冷たい笑みと共に舞台に立っていた。
悪役令嬢、トリエステ・スゴンダ。
その仮面はもう、すっかり肌に馴染んでしまっていた。
ーーでも。
その裏に隠された、もう一人の”私”が、今日もまた小さく震えているのを知っている。
破滅を繰り返す度に、城壁は薄くなっていく。
今や名前を呼べば崩れてしまいそう。
「呉羽……」
声に出してみる。
まるで異国の誰かの名前のように響いた。胸が、少し痛む。
「アンダイエ……いえ、まつあき……」
私は立ち上がって、窓からヴァンデミエールの街並みを見る。
灯りはどこか遠く、冷たく見えた。
ここは、私の居場所ではない。けれども、わたくしが居なければならない場所。
「わたくしは……”この役”を、最後まで演じきれるのかしら」
もう誰も教えてくれない。アンダイエも、あの記者も、ティラナも、誰も。
それでも私は、仮面を外せない。
だって、仮面を外してしまえばーー壊れてしまうから。
「くれは……許してね」
涙が出てきた。
手をほんのりと湿らせる。
「これが私の……わたくしとしての選択」
魔法石は白く光っていた。
まだ続けられる。
だから、鏡で微笑む私……わたくしを作る。
「もう最後まで行くしかない」
……そう。もう迷っている場合ではないのだ。
わたくしは、トリエステ・スゴンダ。
この国に仮面を被って生きる、悪役令嬢。
私は、ではない。わたくしは。
そう呼ばれるたびに、そう名乗る度に、かつての”私”は奥へと沈んでいく。
静かに、深く、波紋ひとつ立てずに。
ーー仮面は、まだしっかりと貼り付いている。
それでいい。明日もまた、舞台に立つのだから。




