新聞社『熱月の風』
その街には、葡萄をモチーフにした紋章が刻まれた街灯と花崗岩の舗道、重厚な石造りの建物が並んでいる。
空は青く澄んでいて、大通りには人の声がしてにぎやかな雰囲気を出している。
だがアンダイエにとっては、変な静けさを心の中で感じていた。
アンダイエは歩いているうちに、かつての名前を思い出せなくなっていた。
さっきまでは残っていた”花堂松明”という名前。
今は封印されたみたいに消えている。
その代わりに、”アンダイエ・シュティ”という名前こそが正しいと思えるようになった。
いろいろとこのストラス・ラザールに訊きたいけれども、今は新聞社に向かうことにしていた。
「おい、こっちだ」
ストラスは早足で歩きながら、振り返らずに言う。
その声はあのメイドとは違ったものだが、凛としていてアンダイエにとってはどこか安心感があった。
だからこそ、はぐれず彼女の背に引き寄せられるようにアンダイエは歩を進められたのかもしれない。
「ここがあたしの勤め先。『熱月の風』っていう新聞社さ』
低い石段を上がると、そこには三階建ての古びた建物が。
大きな活字で書かれた『熱月の風』という看板が、風で揺れている。
「戻った」
建物の中は、紙とインクの匂いに満ちていた。
紙を刷る音にタイプライターの音が重なり、誰かの笑い声や誰かの怒号が交錯する。
「さあ、まずは事情を訊かせてもらおうか。……もちろん話せる範囲でいい」
木製の椅子に座らされ、用意してくれたカップに入れられた紅茶の湯気を見つめながら、アンダイエは言葉を探した。
でもぼんやりとしか思い出せない。
別の場所で暮らしていた。
それを話したいけれども、言葉に出来ない。
「うう……」
自分はどこから来たのか。どうしてあの場所に居たのか。
なぜこの姿なのか。なぜ自身が”アンダイエ・シュティ”と認識出来るのか。
ただはっきり残っている事。
光るペンと白く塗りつぶされていく本と画面。
そして、”彼女”の姿。
(お姉ちゃん……)
口に出そうとすると、喉が詰まって出てこない。
まるで、もはや事実では無いように感じてしまうから。
「……そうか。もしかして記憶喪失ってやつか?」
「……分からない」
「でも、名前はアンダイエ・シュティっていう事でいいんだな?」
「……はい」
困惑しているからか、歯切れの悪い感じでアンダイエは返答した。
名前に関してはもうそれでいいかも、と思っていた。
この世界において、自身は”何者でもない誰か”と思えてきたからだ。
「名前だけは確かだけれども、どこで住んでいたのかも分からないし、何をしていたのかも分からないだな?」
コクリと頷くアンダイエ。
それを見てストラスは紅茶をすすり、思いついたかのように少しだけ笑った。
「行く宛も無いんだよな……なら、新しい居場所でも作ろうか」
「えっ……?」
「もし君が良かったら、記者の助手としてここで暮らさないか? 街で拾った迷子にしては、頭が良さそうだし。どうせ色々と曖昧だったら、”書くこと”で思い出すかもしれないしさ」
その言葉に驚きながらも小さく頷いた。
このままさまよったって、どこかで行き倒れになるのは目に見えている。
だったら、ここでしばらく居た方が良いかもしれない。
(書くこと……)
「あの、紙を借りて良い?」
「紙? ああ、書き損じの古紙でよければ、はい」
ストラスは雑に置いてあった古紙を手渡した。
「じゃあ、ちょっと主筆に話してくるから」
そう言って席を外したストラス。
貰った古紙を手に、ブレザーの中に入っていた万年筆を取り出して、その万年筆に古紙に文字を書いていく。
万年筆はまだ慣れていないものの、紙にペン先が触れた途端、記憶を思い出したかのように、文字を書いていった。
『トリエステ・スゴンダ。あるいは____ぼくのお姉ちゃんだった人の名前』
アンダイエはトリエステの名前は書けたが、花堂呉羽の名前は一切書けなかった。抜け落ちていた。
そのために、そこだけ空白が出来ていた。
戻ってきたストラスはトリエステの名前を見て、ニヤリとする。
「ほう、その名前を知っているなんてな。スゴンダっていえば、ヴァンデミエールに住む令嬢の名前だ」
「そうなんですか?」
「あたしも新聞記者だ。多少は知っているさ。どうしてそれを書けるのか分からないが、君は本当に面白いな」
アンダイエの頭を撫でるストラス。
「ストラスさん、ヴァンデミエールってどこですか?」
「そっか、君ってヴァルミュルブールの地理すら忘れているんだな。大丈夫だ、あたしが教えてあげる」
ストラスはアンダイエに地理を教える。
この国はヴァルミュルブール国である事、ヴァンデミエールは王都であるという事で、今居るのはテルミドールで、大統領府がある都市であることなど。
「まあ、色々と混乱するだろうからこれくらいにしようか」
「ありがとうございます」
「で、さっき主筆に確認を取ったら、助手にしてくれるってさ。良かったな」
「本当!? よろしくお願いします!」
こうしてアンダイエはストラスの助手として、新聞社『熱月の風』に入ったのであった。