記録保全法の採決 トリエステの選択
ニヴォーズにある議事堂の高い天窓から、初冬の薄曇りが差し込んでいた。
祝典の次の日に、私は議会の貴族傍聴席の最上段に座っていた。
今日、貴族院にて『記録保全法』の採択が行われる。
私はそのために王政派の代表として、呼ばれたのであった。
いえ、一度は貴族院で可決された。でも、平民が代表となる代議院では否決されている。
そのため貴族院で、この法案を再可決させようとしていた。
ヴァルミュルブールでは、片方が可決してもう片方が否決した場合、もう一度採決をして、三分の二以上の賛成があれば議会を通過できる。ただ、大統領の署名が必須らしいけれど。
王政派の立場として私は当然『再可決支持』を表明するべき。
だが今の私は、それを選べなかった。
(……あのまま可決させれば、私は役割を守れる。でも……)
この法は、報道という分野における統制を強化するようなもの。
それに、舞台そのものを強固にする法でもある。
記録の全てを定義し、曖昧さを消し、役割をさらに固定していく。
これが通れば、私はもう二度と”私”には戻れない気がしていた。
いや、それ以前にアンダイエすらも……演じる観客として縛りつけられる。
(それだけは……)
私の示した立場はーー”否決”に動くこと。
貴族の一部を説得し、王政派の表を分裂させた。
まさにこの一手が、世界にさざ波を起こした。
(ーー採決の結果、再可決に必要な賛成に満たないため、記録保全法は廃案となります)
採決は紛糾した。
結局、記録保全法はわずかではあるがどう解釈しても三分の二に満たず、否決となった。
議会が散会し、私は廊下を歩いていた。
足取りは軽く、けれど胸の奥には奇妙な違和感が渦巻いていた。
(これでよかったの? これでアンダイエも舞台も自由になるの?)
そんな希望のような、錯覚のような感情。
だがーー
ポケットの中の魔法石は、いつの間にか赤く光り始めていた。
(……やはり、崩れ始めているのね)
でもすぐには破滅していない。こういったのは、時々あったけれども。
結局は、時間が経って破滅する。
二日後……
『熱月の風』の紙面にとある記事が掲載されていた。
『幻の宮廷ーー祝典の奥で踊る”役割の令嬢” 記:アンダイエ・シュティ』
私は手元の紙面を見つめた。
震えが止まらなかった。
(……これが、あなたから見えたものなのね)
記事は鋭かった。
私の”悪役令嬢”としての振る舞いの奥にある矛盾と、舞台そのものの異様さを滲ませて描いていた。
美しく、それでいて恐ろしい記録。
まるでーー
この世界の『舞台構造』を抉るかのようだった。
「トリエステ・スゴンダ、現体制を崩壊させようとした、国家反逆罪で逮捕する!」
その数日後、私は当局に逮捕される。
国家反逆罪だけではなく、汚職に関わったなど、様々な罪状で。
私は簡単な取り調べの後に、拘留室に入れられた。何回かこんな事はあるから、そこまで驚きはない。
入れられてから少しして、重く閉められた鉄の扉が開かれる。
目の前に現れたのは、ティラナ・アレグリアだった。
黒紫のドレスが囁くように揺れる。
「随分と、盛大にやってくださったわね」
「ティラナ……」
「記録保全法を完全な廃案に導くなんて、あれは完全に逸脱行為ですわよ。あなた、もう戻れないわね」
私は何も返せずに、うつむいた。
「貴女に関する記事、読みましたわ。あの『幻の宮廷』……綺麗な文章でしたわね、まるで記録の層に最後の傷跡を刻むようで」
あの記事は、アンダイエが書いたもの。
私の存在を、美しくも残酷に描き出してくれていた。
「彼女は、あなたのために書いたのでしょう。でも皮肉ね。あの記事が出たからこそ、保衛委員会……いえ、王宮保衛室は”逸脱”を公式に断罪できたのだから」
「……アンダイエは悪くない。すべて、私が……私が勝手にやったこと」
そう。私が可決すべき法案を否決へ導いた。その選択こそが、世界の舞台を揺るがした。
ティラナは歩み寄り、私の目の前に立つ。
「貴女ね……ここまで壊すならば、せめて”誰か”を巻き添えにしても良かったのよ。何回もしてきたように」
「……っ!」
「アンダイエ・シュティを人質に使えば、今ごろ当局も王宮保衛室も動けなかった。そうすれば貴女はもっと自由に選べた」
「そんなこと、できるはずが……ないわ……!」
私は小さく叫んだ。
彼女だけは絶対に巻き込みたくなかった。
それが私の、最後の”呉羽”としての意思だった。
ティラナはふぅっと息を吐く。
まるで今にも終幕を告げる舞台監督のように。
「けれど、終わりは避けられないですわ。舞台は整合性を欲します。秩序を乱した役者は、修正される運命にある」
沈黙。
そして、最後の問いかけ。
「貴女はーー次に時間が戻った時、どう振る舞いますか?」
「…………」
私は目を閉じた。
魔法石が時間をループさせるその時に、私は……。
「……次は可決させるようにするわ」
「よろしいわ」
ティラナはそう言って帰って行った。
「うっ……」
少しして、私は処刑させられた。
アンダイエも見ていて、最期に見えたその表情は暗いものであった。
「お嬢様、本日の議会準備は整っております)
カトリーヌの声が響く。
目を覚ましたら、記録保全法の採決の日に戻っていた。
魔法石は青く光っていて、はっきりと戻ったのが分かる。
今度こそ、私は決めていた。
(……可決させる。アンダイエを、消させないために)
ゆっくりと、私は笑みを作った。
「ええ……準備を始めましょう」
議事堂の朝は重たく、どこか粘るような空気が流れていた。
私は王政派として貴族傍聴席に座って、手袋越しの指先をわずかに握りしめる。
白く光る魔法石は、今も胸元で脈打つように淡く光っている。
(今度は……正しく、舞台を進める)
記録保全法ーー
この法案が再可決されることで、私は悪役令嬢の舞台に縛られ続けるだろう。
けれど、それによって舞台そのものは壊れない。アンダイエも残される。
(アンダイエ……あなたを、今度は消させない)
議長の声が響く。
「ーーただいまより記録保全法の採決を行います)
貴族院議員のあちらこちらで視線が交錯する。
王政派の重鎮達が小さく頷くのを、私は確認した。
今度は、分裂はない。私はそのように仕向けたのだから。
投票は粛々と進められた。
「……再可決に必要な三分の二以上の賛成がありました。これを以て本法は成立と認めます」
議場が静かにざわめく。
私はそれを見ても微笑を崩さずに一礼した。
隣席の貴族達が「さすがスゴンダ嬢」と讃える声が耳に入ってくる。
議事堂の外に出た時、空はすでに午後の色へと変わっていた。
私は馬車に乗り込む前に、カトリーヌの小声を聞いた。
「お嬢様……今回の動き、見事でございました」
「ええ。すべて、”わたくし”の役割のままに」
口元だけが微笑を浮かべる。
けれど胸の奥には、僅かな痛みが残っていた。
白い魔法石は、冷たく穏やかに輝いている。
その夜遅くーー
私は書斎でそっと封筒を取り出した。
女王陛下に預けた詩文の控え。
これは、いずれアンダイエに渡るはずの”最後の鍵”。
(その時がくるまでは、私は役を守り続ける)
仮面を被り続けたまま。
私はそっと微笑む。
「さて……舞台は、まだ終わらないわ」




