選択の代償と、選択の猶予
私はアンダイエが消えてしまうかもしれないという恐怖で、逃げるのは一旦やめることにした。私だけが消えるなら良いかもしれない。
でも、巻き込まれたアンダイエまでも消えることになるのだったら、何としても演じ続けないと。
巻き戻りながらも、時は進んでいった。
この日、ヴァンデミエールの朝はまだ薄暗く、空気はわずかに冷えていた。
「お嬢様、本日よりニヴォーズでのご公務がございます」
家の前に馬車が停まっている。
私は微かに頷く。もう、驚きや戸惑いはとうに薄れていた。
何度も破滅していて、歪に補強されていたから。
今の私は”わたくし”ではなく、まだ”私”で居られたけれどーーこういう瞬間にも、”トリエステ・スゴンダ”として全てを委ねたくなる。
「……行きましょう」
ヴァンデミエールからニヴォーズまでは特別列車が用意されていた。貴族や議員、官僚たちだけが乗れる専用の。
議会での予算審議が始まるため、貴族の象徴として私が呼ばれたのだという。
(王政派の”若き華”ーー皮肉な肩書きね)
車窓から眺めるヴァンデミエール郊外の葡萄畑の丘陵は、どこか現実感が薄い。
私はドレスの上からそっと手を置いた。
持ってきた魔法石の色は、白く光っていた。
(今の私は、正しいルートの中にいる)
それでも、胸の奥の鋭い重みは消えない。
何回か破滅してきて、石の色の意味が分かってきた。
白は正規ルートを進んでいる。淡いピンクは、ルートを外れそうになっている。それがピンクから赤になるにつれて正規ルートに戻れなくなってくる。
赤く光れば破滅が確定。
気がついて青く光っていれば、時が戻った。
「セーブポイントね」
それこそゲームみたい。
ニヴォーズに着くと、冷たく乾いた冬の空気が迎えた。
旧市街と新市街の境目となる目抜き通りの石畳を抜けて、議事堂へ。
堂々たる石造りの巨大建築。その中央玄関前に並ぶ衛兵たちの敬礼。
「スゴンダ家、到着でございます」
随行の執事が声を張ると、議会事務局の役人が丁重に出迎えた。
「ようこそ、トリエステお嬢様。今回は議会討論を貴族側から静かにご見学いただければと」
”静かに”ーーつまり、黙っていろということだろう。
私が発言権を持たされているわけではない。ただ、存在するだけで意味を持つ飾り物。
(それでも構わない。演じ切ればいい)
私は頷き、議場上部の貴族傍聴席へ。
重厚な両院議場では、既に討論が始まっていた。
王政派・民権派・中立派の貴族院議員と、ギルド大同盟や労働総取引所の代表や有力な平民からなる代議員議員らがそれぞれ演壇に立ち、お互いに丁寧に言葉を交わしながらも、剣のように緊張感は高まっていく。
その壇上に、漆黒の軍装にも似た儀礼服を着た男が立った。
ハバドゥール・サヴァルカール首相。
国王、大統領に次ぐ立場でも、この国の実務的な支配者。
目は冷たく鋭く、まるで記録の隙間まで把握しているような男。
私は彼の演説を黙って聴く。
「この国の形は、伝統と制度の秩序によって守られてきた。しかし、諸外国の反応や動向、それに連動するように混乱の兆しがある以上、我々は”無言の玉座”に依存するのではなく、より現実的な体制を……」
諸外国……本当かもしれないけれども、このサヴァルカールが言っているだけかもしれない。
静かな拍手が貴族傍聴席の中で起こる。
私もまた、少しだけ手を叩いた。
(わたくしなら、この拍手は当然のように自然だろう)
議場の壁には、葡萄の蔓が浮き彫りに彫られている。
まるで、幾重にも絡み合う時間の螺旋。
ーーその時、不意に首筋が冷たくなった。
誰かの視線を感じた気がして、わずかに視線を横へ流す。
傍聴席の下層、記者席。
その隅に、彼女が居た。
アンダイエ・シュティ。
離れ離れになってから、こんな場所で見るなんて。
顔は微動だにせず、ペンを走らせる彼女。
ペンは、かつて私が買ったもののとそっくり。
ただ、私の存在など意識していないかのように見えたーーが、なぜか胸が疼いた。
(アンダイエ……あなたは、ここにも書き残すの?)
思わず、手袋の中で指が震えた。
魔法石は白いまま光り続ける。その冷たさが、演技の中の私を縛っている。
今日の議会が終わって、私はニヴォーズの旧市街を歩く。
冷たい噴水の水音が心地よく響いていた。
石は白く光っているので、大丈夫みたい。
それにしても旧市街はギルドが力を持っているので、硬貨が基本的な支払い手段。
逆に新市街は労働組合が力を持っているので、紙幣が基本。
だからこそ、駅から議事堂まで境目となる目抜き通りが通っている。
私は、旧市街の中心にある噴水の傍らで彼女を待っていた。
来るかどうか分からないけれども、まだ日数が経っていないなら遊びに来るかもしれない。
そう思って。
でもカンは当たった。
足音が近づいてきた瞬間、私の心臓は軽く跳ねた。
「久しぶり……かしら?」
声に出してみると、まるで芝居の一幕のように聞こえて少し笑えてしまった。
私の視線の先で、驚いたように立ち止まるアンダイエ。
「トリエステ……?」
私の名前を、そのまま口にした。
でも、どこかぎこちなさがあった。
そっか。
覚えていないんだ。
かつての事を。かつてのあなたの事を。
あなたは”記事の中の私”を知っているけれど、本当の私の事は知らない……いえ、忘れちゃったのね。
「そんな名前の言い方、わたくしは初対面の方には言いませんわよ」
自嘲のように微笑む。
何とか”わたくし”って言えたわ。
彼女が私を”トリエステ”と呼ぶたび、胸の奥に妙な痛みが走る。
私は本当にトリエステなの?
でも、私は花堂呉羽だった。
なのにぎこちなくても、”トリエステ”と呼ばれて呉羽である事が離れていくからなのかな。
「あなた、記者……でしょう? ふふ、噂はきいているの。あの”熱月の風”で、取材などをされているとか」
「……あなたが記事になっていた」
その言葉に、ほんの僅かに私の微笑みが歪んだのが自分でも分かった。
だって、それは”役としての私”を見られているということだから。
かつての私を……本当の呉羽を一切見ていない……いや、忘れている。
アンダイエは本当の私を忘れて、知らないまま、記事が積み上げられていく。
まるで”私”を閉じこめる文字の檻。
「それならこう言うべきかしら。『私の舞台を記録してくださって、ありがとう』って」
優雅に、滑らかに言葉は出た。まるで悪役令嬢としてのセリフのように。
本心は、違う。違うのよ……でも、私はまだ”私”として耐えられていた。
だからこそ、悲鳴を出すように言葉が出てきてしまった。
「……アンダイエさん。私ね……」
言葉が、喉の奥で震えていた。
言ってはいけない。頭では分かっている。
けれど、この瞬間の私は、もう限界だった。
悪役令嬢として笑い続け、演じ続け、壊れそうな自分を抱え続けてきた。
目の前のアンダイエは、そんな私の”救い”だった。
だからこそ、本音が滑り出た。
「私ね……本当は、あなたの”姉”だったのよ」
アンダイエの目が驚愕に見開かれる。
いや、松明の目ーーあの、私の弟だったはずの子の目が。
記憶の奥底に封じられていた真実が、境界を破って溢れた。
「……え?」
「そうなのよ……ごめんなさい……アンダイエ」
涙が出てきてしまった。
でも、赤く光るものが見える。それは魔法石。
ああ……破滅しちゃう。
ーー言ってはいけない真実を、言ってしまった。
それは最も残酷な破滅を味わうことになる。
「きゃっ!? ……アンダイエ!?」
「うっ……」
銃声と共に、アンダイエは何者かに胸を撃ち抜かれる。
その場に崩れて倒れるアンダイエ。
胸の部分に銃弾が通ったであろう穴。
そしてアンダイエが着ていた赤い服をより赤く染め上げて、染みは広がっていく。
「どうして……どうして……!」
ドレスが汚れるのも構わずに、アンダイエを抱き抱える。
口からも血が出ていて、致命傷を負ったのがはっきりする。いや、この世界だったら治療しても治る可能性は高くないかも知れないけれど。
「お、お姉ちゃん……」
「ええ! 呉羽、花堂呉羽よ!」
「ごめん……なさい……」
それを言って、アンダイエは事切れた。
揺すっても動かない。
「お願い……! 目を覚まして……!」
世界が崩れていく。
私も飲み込まれて、意識が薄れていったのであった。
ーーそして、私はアンダイエと会う前の噴水で目を覚ました。
石が青く光っていて、時が戻っている。
「……トリエステ?」
やがてアンダイエがやってきた。
私はさっきと同じやりとりを行い、そして……
「……アンダイエさん。私ね……」
また破滅するのに、私はここまで言葉が出てきていた。
でも私は今度こそ言葉を飲み込んだ。
あの時の崩壊の感覚、アンダイエの最期の表情、今でも脳裏に焼き付いている。
代わりに、私は予定されていた言葉を選ぶ。
「もし”この演技”が誰かの願いなら、私はそれを演じきってみせる。だって……壊したくないのよ、この舞台を」
アンダイエは静かに頷き、私の微笑みを受け止めてくれた。
彼女もまた、きっと迷っているんだ。私の役割を、記事を通じて追い続けながら。
それでも私はまた”悪役令嬢”を続ける選択を取るのだろう。
だから、選択の場を残したかった。
ほんの少しの希望として。
「次に舞台が変わるのは、来週。ヴァンデミエール女学院の祝典。わたくし、またこの悪役令嬢を演じることになりそうなの」
そっと紙切れを手渡す。そこには招待状に似せた会場の情報が書かれている。
これが……きっと、最後の観客を招く鍵になるはず。
「あなたは”記録しに来る”? それとも、記録しないことで私を救おうとする?」
後は、アンダイエの選択に委ねるだけだった。
私はもう歩き出していた。
逃げるようにではなく、役割を背負う歩幅で。
背後で追ってくる気配はない。けれど、私は心の中で小さく祈った。
(お願いよ、アンダイエ。まだ、”私”を覚えていてーー)