演説の後に
筆を止めたアンダイエは、そっと手帳を閉じた。
風が吹き抜け、広場の空気を一段と冷たくした気がした。
「行こう。ここにいても、もう何も聞こえない」
ストラスの声は低く、決意に満ちていた。
二人は押し黙った群衆を抜けて、広場を後にする。
通りの先では、他の新聞社の記者達が動揺しながらも、話し合っていた。
誰もが困惑している。
今日のこの”演説”を、どう扱えばよいのか分からないのだ。
「これは報じるべきか?」
「いや、出せば潰される……編集部ごと」
「でも……それでも記者だろ?」
断片的な会話が、アンダイエの耳に届いた。
皆、書けずにいた。
ーー筆が、止まっている。
彼女は背筋を伸ばした。
自分だけは止まるわけにはいかない。
なぜなら、手帳にはまだ”名前のない真実”が書かれていないのだから。
「にしても大統領ははっきりと署名したのだろうか」
「署名?」
「ああ。議会で法案が通過したとしても、大統領の署名が無ければ廃案になる」
「でもしたんじゃないの? 施行されるってことは」
「そうなるが……大統領の意志で正しいと思ったのだろうか」
新聞社『熱月の風』に戻ると、主筆はすでに法務庁から届いた封書を開いていた。それは新法の写し。
そしてもう一通、青い封筒が添えられていた。
「これ……大統領の直筆か?」
ストラスが眉をひそめて訊ねる。
主筆は静かに頷いた。
アンダイエは封筒を受け取った。
開くと、端正な筆跡で、こう綴られていた。
『記録保全法には署名した。だが、それは義務の中の選択にすぎない。真実を選び取る者の筆が、いつかこの”掟”を越える日が来ると信じている』
そして筆跡の最後にこう署名してあった。
『ヴェネト・サランシュ ヴァルミュルブール国大統領』
この文面に、アンダイエはほんのわずかに唇を結んだ。
「……これが、最後の自由になるかもしれないね」
ストラスはぼそりと呟く。
だがアンダイエは、その目に燃えるものを宿していた。
「なら、その自由で、記すよ。たとえ消されても、何かが残るように」