トリエステ・スゴンダの自室にて
この日、ヴァンデミエールの夜は静かであった。
屋敷の一室、高級な絨毯が敷かれたトリエステ・スゴンダの自室にて、
トリエステはひとり、姿見の前に立っていた。
鮮やかな緋色のドレス。
背筋を伸ばし、微笑みを浮かべる顔。そこ瞳には涙も怒りも映らない。そう仕組まれていた。
「”夢を見る平民なんて、舞台装置の一部で十分”……そう言えば、満足かしら?」
低く、誰にも届かない声でつぶやいた。
舞踏会での出来事は、もう新聞社を通じて国中に広まっている。
そしてシュヴァルエールであった軍事閲兵式の発言なども、近いうちに記事に載るだろう。
ヴァルミュルブール国内の主要紙はもちろんだろうが、テルミドールの”熱月の風”だって当然記事にするだろう。
彼女の言葉は、台詞として”記録”され、”トリエステ・スゴンダ”という役柄を強固にしていった。
悪役令嬢としての役柄を。
(本当は……私が、いちばん夢見ていたのに……)
思い出すのは、舞踏会で見た”あの子”の顔。
新興令嬢。目に希望を宿し、震えながら笑っていた。
それに気づいてしまったからこそ、彼女は”台詞”を吐き、水を掛けなければならなかった。
「台本通りに動かないと、物語は崩れてしまう……そうでしょう?」
誰に問いかけているのか、自分でも分からない。
でも、時折”別の誰か”の気配を感じるのだ。
それは別の場所に居る誰かかもしれないし、俯瞰して見ている存在なのかもしれない。
だがトリエステには分からない。
(あの日……あの路地で、声をかけてきた少年のような女性ーーあなたは誰?)
正体は分からなかった。
けれど、その”目”だけは、どこかで見たような気がした。
自分を見つけてほしかった誰か。否、見つけてほしくなかった、かつての何か。
トリエステは目を閉じた。
思い出せない。だが、涙だけがこぼれそうになる。
その瞬間、室内に備えられた記録用の魔法石がふと、白く淡く光った。
記録ーーそれはこの世界で、真実の一部として扱われる力。
「……記録、ね」
誰かが私の声を記録している。
私のこの”演技”を、記録として残している。
意思に関係なく、私の全てを。それを逃れる術はないし、そもそも逃れられない。
私は記録に囚われている。
だとすれば……
「どうかしら、あなた。”私の演技”が、まだ終わっていないと、そう思ってくれるならーー」
私は笑う。完璧な”悪役令嬢”として。
その笑顔が崩れない限り、私は”物語の中”に居られる。
完全な”破滅”にはならない。
(でもいつか……この笑顔を壊してくれる誰かがいるなら、救われるかしら)