記事の中心、トリエステ・スゴンダの悪評
テルミドールの朝。時計塔の鐘が五度鳴った後、アンダイエはストラスの後について、石畳の路地を抜けて旧市街へと向かっていた。
少々早いが、たっぷりと取材の時間を取りたかったから。
この日の午前中のアンダイエは、市民の声を拾う事になっていた。
市庁舎のベンチに腰掛けているある老夫婦はこう語った。
「いやぁ、このところ王都の話題といえば、あのスゴンダの令嬢だろう? また何か騒ぎを起こしたって」
「そうそう、舞踏会で平民出身の新興令嬢に『見苦しい夢ね』って言い放ったって聞いたわ。見苦しいねぇ、いくら名家でも」
また時計塔広場に居たある青年は……
「別の新興令嬢に対して、水をぶっかけたって話もあるらしい。まあ、ああいう”悪役”がいてこそ、社交界ってのは締まるもんさ。彼女が演技しているのか生粋なのかは、分からないがな」
市民たちの話は噂の域を出ないが、それだけに”物語”のような熱気を帯びている。
噂の中心はトリエステであった。
アンダイエは聞き取りを続けながら、言葉を書き留めていた。
『スゴンダ嬢は笑っていた。でも、その顔は怖かった』
『彼女の言葉は、まるで舞台の台詞であったが、本心のように彼女の本心を出しているようであった』
午後、新聞社に戻ったアンダイエは、ストラスから手渡された手書き原稿をタイプライターで写す作業に入った。
その紙には、ヴァンデミエール近郊で開催された軍事閲兵式に関する記事が書かれている。
『先週末、ヴァンデミエール近郊のシュヴァルエールで開催された秋期軍事閲兵式において、貴族連合の代表列席として出席したスゴンダ家のトリエステ令嬢が、ある平民出身の若手将校の発言に対し、厳しい言葉を浴びせたことが報じられている』
記事の序文をタイプライターで入力していった。
明らかに内容はトリエステ・スゴンダに関すること。
『無礼ね。階級を乗り越えたと語ること自体が、教育の失敗を証明しているわ』
『その語調は堂々たるものながら、どこか”冷たい脚本”の一説をなぞるかのようであった』
アンダイエの指がキーの上で止まる。
”冷たい脚本”
(そんな人だったっけ……?)
誰に問いかけるでもなく、胸にかすかな違和感が広がる。
でも、記事の本文にはそれが”当たり前”のように書かれている。誰も否定していない。
やがて彼女は、清書を終えて机を離れた。
夜、自室に戻ったアンダイエは、ランプの明かりだけを頼りに、今日の出来事を手帳に書こうとしていた。
いつもなら書けていた。
けれども、なぜか手が動かない。
(わたし……なにを書こうとしたんだっけ)
やがて書こうとする気持ちすら忘れてしまった。
ふと、今日取材で書き込みをした手帳のページの端に、知らない文字が書かれているのに気づく。
『悪役令嬢の声は、誰かの願いの裏返し。舞台の上でしか”言えなかった”言葉を、彼女は今、誰にも届かぬように演じている』
「……これ、わたしが書いたの?」
筆跡は似ている。
でも、確実に自分ではない、そう確信できた。
それでも不思議とその言葉に、胸の奥がざわめく。
(あの笑顔……あれは誰に向けて?)
眠れぬまま、アンダイエは手帳を閉じてベッドに身体を横たえる。
時間は過ぎていくけれども、考えを少しだけ放棄しているこの状態なら、楽だから。
風の音の中で、どこからか誰かの囁きがしたような気がした。
「悪役を演じるしかないなら、それを記録してあげて」