紅茶の向こうの沈黙
テルミドール旧市街の裏手にある、古風なティーサロン。
葡萄模様の壁紙とレースのカーテンに囲まれた席で、ティラナ・アレグリアは優雅にティーカップを傾けていた。
「お茶会に付き合ってくださって、ありがとう。アンダイエ・シュティさん」
アンダイエは小さく頷いた。向かいの席で、借り物のストールを膝にたたみ、姿勢を正している。
「こちらこそ……いろいろと失礼をしてしまって」
「いいえ、あれは事故。むしろあなたの顔をもう一度見られたから、帳消しにしましょう」
ティラナは微笑むが、瞳は笑っておらずどこか試すような、冷たい深紅の視線。
「しかし、不思議なものね。あなたのような方が、どうして記者を?」
「わたし……記録を残すのが、好きなんです。忘れたくないから……」
「忘れたくない? ふふ、では訊いてもいいかしら? あなたが残したいものって、なに?」
アンダイエは一瞬、返答に詰まる。けれども、胸の奥にある何かを押し出すように言った。
「……誰かの声。……その人が話したこと、感じたこと。それを残して、届けたい」
「まあ、それは立派な志ね。まるで”記録者”のようだわ」
その単語に、アンダイエの心がわずかにざわめく。”記録者”ーーどこかで聞いたような気がする。だが、記憶にはない」
「あなた……以前、わたくしを見た時、驚いていたわよね」
「えっ……?」
「紅茶を掛ける前に、視線がわたくしのドレスじゃなくて、顔に向かっていたもの。まるで”知っていた”ような目で」
「いえ、そんなつもりは……」
「本当に? それとも、知っていることを”忘れている”だけ?」
アンダイエの胸がどくりと鳴る。
記憶の底で、燃えるような髪の影と、名前の呼びかけが浮かびかける……
「……すみません、わかりません」
ティラナは静かに笑った。
「安心して。わたくしも、すべてを知っているわけじゃないの。ただ、この国には”書かれない人間”というものが存在する。そういう人には、興味が湧くのよ」
そう言って、そっとテーブルに小さなメモを置く。
手書きによる文章、『”シュティ”という性が、この国の貴族記録にも市民台帳にも存在しない。アンダイエ・シュティは戸籍無し』という調査メモ。
「名前があるのに、記録に無い。あなたって、どこから来たのかしらね」
ティラナの声は柔らかかった。けれど、その問いはまるで、”舞台の上に立っていない登場人物”に向けられる台詞だった。
アンダイエは、答えられなかった。
答えが、最初から”存在していない”と感じたのだから。もしくは、”解なし”というのに書き換えられているか。
やがてお茶会は終盤に。
アンダイエは黙ったまま、冷めかけた紅茶を見つめていた。ティラナはそれ以上問いつめようとしない。ただ微笑みながら、指先でカップの縁をなぞっていた。
「……ちょっとだけ記者になった理由に付け加えていい?」
でも重々しくアンダイエは口を開く。
「どうぞ」
「わたし、何も分からなくてこの街で”消えてしまうかもしれない”と思った。でも記者だったら、記録することが出来て、消えていないと証明できる。それにあの時、記者のストラスさんに名前を訊かれた。わたしは名前を言えて、そこから住む場所を与えられて……ここに居ていいという気になれた」
「そうなの。土台があったのね」
ティラナは否定することなく、アンダイエの発言を聞いていた。
「……まあ、思い出せないことは、時に祝福でもあるわ」
「……どうして、そう思うんですか?」
「思い出せなくなっていたから、あなたはそうして記者になれている。それにわたくしも、いくつか”語られなかった物語”を見てきたから。記憶と記録は別物よ」
ティラナは立ち上がり、黒傘を手に取った。
「今日はありがとう。次はわたくしが紅茶を淹れる番かしら」
くすりと笑って、ティラナは金貨で紅茶の代金を支払う。
しかも金額的にアンダイエの分までも支払っている。
「あっ、わたしが奢るって……」
「良いですのよ。あなたと会話出来て楽しかったですし、また会う機会を作りたいですもの」
そう言って、風の中に溶けていくように去っていく彼女。
アンダイエはその背中を見ながら、ふと手帳を開いた。
文字が書き込まれているのは、さっきまで取材に使っていたページまで。そのページの端に、取材で書き込んだのとは違う、見慣れない言葉が記されていた。
『彼女は台詞を”演じていた”けれど、演じながらも”自分の台本”を探しているようだった』
「……え?」
確かに、自分の筆跡ではない。だが、癖は似ていた。
まるで誰かがアンダイエとして書いたかのように。
(わたし……こんな言葉、いつ……?)
思い出そうとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
まるで”それ以上は引き出せない”と誰かに止められているような感覚。
その時、背後から声がした。
「おい、アンダイエ。さっきの黒い傘の貴族の女、知り合いか?」
振り返ってみると、ストラス・ラザール。
路地の角で腕を組んだまま、じっとこちらを見ていた。
「……知り合い、というより……向こうから声をかけられて……」
「ふぅん。先日の揉め事の後に、ティラナ・アレグリアがねぇ……」
「うん……」
「アレグリア家の令嬢ってだけでも面倒な存在なのに、”偶然”にしては出来すぎているな」
そう言いながら、彼女はアンダイエの肩にそっと手を置いた。
「気をつけろよ。ああいう貴族は、”誰が舞台に立っているか”を見極めるのが上手いんだ。……特に、台本に載っていない役者を探している時にはな」
その夜。
アンダイエは部屋のベッドに横たわりながら、手帳の最後のページを何度も読み返していた。
誰が書いたのかーーではなく、なぜそれが”残されていた”のかが気になって仕方なかった。
アンダイエが書いたようで、書いた記憶がない。
そのまま眠りに落ちる直前、夢うつつの中で聞こえたのは……
「あなたは、記録される側? それとも、記録する側?」
その声は、紅茶と共に甘く香るような、あの令嬢の声に似ていた。