ティラナ・アレグリアとアンダイエ・シュティ
翌日、ヴァンデミエール市内にある貴族街の一角。
ヴァンデミエールの風景を背に、ティラナ・アレグリアはサロンの窓辺に腰をかけて、手帳を開いていた。
開いた手帳には、昨日掛かった紅茶の跡と共に、『アンダイエ・シュティ』の名前がくるりと飾り文字のように書き留められていた。
「……奇妙な名前ね。知らないはずだけれども、ちょっと気になってしまう」
彼女はそっと唇を舐めた。
思考の奥底で疼いていた。
「ねえ、スコピエ」
「はいなんでしょうか?」
傍らに控えていた執事に、ティラナが指示を出す。
「テルミドール市の熱月の風っていう新聞社。あそこに居るであろう、新人記者”アンダイエ・シュティ”について調べて。経歴、出身地、家族……何でもいいわ」
「あの……ティラナお嬢様、どうしてその方が熱月の風所属というのを、お知りに?」
「書いてあったの、彼女のカバンに『熱月の風』って。おまけに中には封筒もあったわ。それにあの後に、ラザールっていう記者と一緒だった」
過去にティラナはストラスからの取材を受けていて、名前や容姿を覚えていた。
「承知いたしました」
「……まあ、出てこないかもしれないけれど」
執事が下がるのを見送りながら、ティラナは紅茶をすする。
「でも出てこなければ、むしろ”本物”の可能性がある」
「わたくしのように、ね?」
薄く笑いながら、立ち上がる。
「さあーー偶然を装いましょう」
数日後、テルミドール旧市街の時計塔前。
昼前に取材帰りのアンダイエが通りを抜けようとしたそのとき……
「まあ、またお会いしたわね。偶然って素敵だわ」
そう言いながら、黒傘をさしたティラナが現れた。
背後には一人の使用人が、いかにも落としたような”封筒”を持って立っている。
「あなた、これを落としたんじゃないかしら?」
封筒には、昨日アンダイエがカバンの中に入れていた『熱月の風』の名前が書かれている。
だが、彼女が落とした覚えはない。
「えっと……?」
それにティラナがなぜこの新聞社を知っていて、所属しているのかというにも、困惑するアンダイエ。
「いいのよ。わたくし、こういうのは得意なの。”人に返す機会”を仕組むのって」
ティラナはくすりと笑った。
その声には、やはり何かを探るような気配があった。
「どうかしら? この街で、また紅茶でも奢ってくれる? 今度はこぼさないでね、アンダイエ・シュテイ」
先日、たった一回だけ名乗った名前。それを正確に、意味ありげに呼ぶその声に、アンダイエは言葉を失った。