ティラナ・アレグリア
アンダイエはこの日、取材を行っていた。
お昼過ぎまでテルミドール市内で取材を行って、今は休憩のタイミングであった。
ストラスが、市内の別の場所へ行っていたためでもあると言えるが。
それに新聞社へ戻るには少々時間がある。
だから近くの露店で紅茶を購入しベンチに座ろうとしていた。
「あれ?」
ふと通りかかった令嬢の姿が目に入った。
令嬢といっても、彼女はトリエステではない。
黒紫のウェーブがかかった髪、深紅の瞳に黒を基調としたドレス。
周囲の空気すら張りつめさせるような、冷たい美貌。
彼女はティラナ・アレグリア。
名門アレグリア家の令嬢。その名を知らぬ市民はいない。 だが、アンダイエはその事を知らない。
さらに不幸だったのは……
「あっ……!」
ティラナの事に気を留めず、紅茶を飲もうとした時に手が滑って、持っていた紅茶のカップがぐらりと傾いた。
それがティラナが目の前を通っている瞬間であったため、紅茶はティラナに向かう。
「あら?」
液体は彼女のドレスの裾に掛かってしまう。
「これは……」
「……失礼しましたっ! い、今、ハンカチ……」
慌ててカバンを探るが、手元にあるのは筆記具と手帳のみ。
焦った末に、アンダイエは財布から紙幣を一枚取り出した。
「こ、これ……クリーニング代に……」
差し出されたその紙幣を、ティラナはちらりと見て、薄く笑った。
「いらなわよ、そんな下賎な紙幣なんて」
その声は凍てつくように冷たかったが、どこか楽しげでコメディな感じがあった。
「……え?」
「大東洋銀行発行の紙幣ね。ちゃんとしたヴァルミュルブールの通貨だけど、それは貴族の間では使い物にならないわよ。それに……これはただの事故、罰を与えるほどのことでもないもの」
そう言いながら、彼女は濡れた裾を軽く払う。その仕草すら、演技しているかのように美しいティラナ。
だが、アンダイエの胸に残ったのは、美しさよりも『階級の断絶』であった。
「それにしても……」
ティラナはふと、アンダイエの顔をまじまじと見た。
「あなた、名前は?」
「……アンダイエ・シュティです」
「ふうん、どこかで聞いたことがあるような……いえ、気のせいね。わたくしはティラナ・アレグリアよ」
ティラナは名乗ると、また歩きだそうとする。
「また会うことになるかもしれないわね。でも、そのときには……紅茶をこぼさないでちょうだい」
そう言い残して、彼女は背中を向けて立ち去っていった。
「どうしたんだ?」
少ししてストラスが戻ってきた。
「ティラナって人に、紅茶を掛けちゃった……」
アンダイエの話を聞いて、ティラナの事を言う。
「その人は名門の令嬢だな。大丈夫だったか?」
「うん……」
そしてストラスと一緒に戻るアンダイエであった。