空想彼女
春。新しいクラスになって、わずか1ヶ月。
藤原慧人は、教室の窓際でぼんやりと桜を見ていた。窓の外では春風に舞う花びらが、時間の流れに逆らうように舞い上がっては、ゆっくりと地に落ちていく。
慧人は目を細め、ぼんやりとそれを追いながら、教室内に漂う視線を感じていた。周囲の女子たちがちらちらと彼を見ては、何やらひそひそと囁き合っている。
「藤原くん、ほんとイケメンだよね……」
「彼女とか、いないのかな」
「今年こそアタックしてみようかな」
慧人はため息をひとつ、そっと漏らした。──また、これか。
顔立ちは整っていて、成績もそこそこ、スポーツも人並み以上。その“完璧さ”が、逆に人を惹きつけてしまう。
でも慧人にとってそれは、ただの迷惑だった。
望むのは静かな日常であり、誰かに好かれることでも、注目を浴びることでもなかった。
(こっちは、別にモテたいわけじゃないんだよ)
去年から少しずつ準備していた“切り札”を、慧人はついに使うことにした。昼休み、親友の成瀬《なるせ》がパンをくわえてやってくる。
無造作に椅子に腰掛けると、カバンから取り出した紙パックのコーヒー牛乳を一口飲んで口を開いた。
「なあ慧人、また女子からの手紙入ってたぞ。靴箱の上、溢れかけてた」
慧人は肩をすくめ、淡々と答える。「俺、彼女いるってことにするわ」
「……おお?いきなり?どんな人?」
「金髪でさ。青い目の外国人。名前は……ミリーア・エンブレム。他校に通ってる」
「は?」
成瀬の口からパンくずがこぼれた。
「おま、なにそれ。どこ情報?」
「俺情報」
慧人はにやりと笑った。SNSをやっていない、連絡は英語のみ、会えないのは遠距離だから。すべてが完璧な設定だった。
几帳面に性格を作り込み、服装の好み、週末の過ごし方、好きな映画や音楽の趣味に至るまで、事細かに“彼女”を描いていたのだった。まるで、何年も付き合ってきたような詳細さで。
この瞬間、ひとつの嘘が静かに芽を出した。
それから一週間も経たないうちに、
「藤原慧人には外国人の彼女がいるらしい」
という噂は、クラスから学年、そして学校全体へと広がっていった。人づてに語られるその存在は、美化され、神聖化され、もはや実在を疑う者はいなかった。
「金髪で、青い目なんだって」
「しかもモデルみたいな美少女らしいよ」
「え、ハーフ? 純外国人って聞いたけど」
「英語でラブレター交換してるとか、マジ?」
女子たちはざわつき、憧れを抱いていた者たちは肩を落とした。佐伯ほのかも、その一人だった。彼女は慧人と同じクラスになってからずっと、彼のことを密かに想っていた。
人前に出るのが苦手なほのかは、遠くからそっと見ることしかできなかった。だが、慧人の仕草や佇まいは、彼女の毎日に静かな色を添えていた。
図書室で彼が借りた本を真似して読んだり、窓際に座る理由を想像したり。そんな些細な行動ひとつひとつが、ほのかにとっては宝物だった。
だからこそ、慧人に彼女がいるという噂を聞いたとき、彼女は何も言えず、ただ心の中でひとつの季節が終わったのを感じた。
(ああ……私の春は、終わったんだ)
慧人は屋上にいた。人気のない空間に、成瀬がジュースを二本手にやってくる。
「……お前の嘘、ほんとに広まったな」
「想定通りだよ。誰も告白してこなくなった。平和だ」
「でもさ、本当に彼女できたらどうすんの?」
「そしたら、ちゃんと伝えるよ。嘘は、嘘って」
慧人の顔に、わずかに影が落ちた。
その翌週。慧人は、英語スピーチコンテストの地区予選に出場することになっていた。
教師に推薦され、断る理由もなかったが、特に乗り気でもなかった。誰も自分の話など聞いていない、そう思っていた。
会場は市内の国際文化交流センター。制服姿の高校生があちこちから集まり、控室には緊張と期待の空気が満ちていた。
慧人は一人、ロビーの隅で缶コーヒーを片手に休んでいた。誰とも話さず、ただ人の流れを眺めて。
「Excuse me… is this seat taken?(ここ、空いてる?)」
ふいにかかった声に顔を上げると、そこに立っていたのはまさに、自分が創り出した“空想の彼女”だった。
金髪のウェーブが光を受けて揺れ、青い瞳が好奇心に輝いている。整った顔立ちと凛とした佇まい、そして落ち着いた声色。
慧人は驚いたように口を開け、ハッ、と意識を摘み戻した。
「Sure, go ahead.(もちろん)」
自然に口から出た返事に、自分でも驚いた。少女は微笑み、慧人の隣に腰を下ろした。
「I liked your speech. Very calm, very… clear.(あなたのスピーチ、気に入ったわ。とても落ち着けてて…頭良さそう!)」
「Thanks. Yours too.(ありがとう。君もね)」
会話はすぐに日本語へと移り、少女は名乗った。
「ミリーア。ミリーア・エンブレム。名前、変よね?」
慧人は言葉を失っていた。自分が創作した名前、そのままだった。
「いや、印象に残る名前だし、とても可愛い名前だと思うよ。どこの学校?」
「××女子高。イギリスから来たんだけど、今は交換留学生で日本にいるの」
偶然にしては出来すぎている。
慧人は内心の混乱を隠すのに必死だった。
そして、さらに驚きは続いた。
「……あなた…。凄い似てるわ」
ミリーアは照れたように笑いながら語った。
「ちょっと青が入った黒髪で、切れ長の目で、英語が得意そうで……」
それはまるで、慧人自身だった。慧人自身を言っているのではないかと思うほどに。
「もしかして、空想彼氏?」
そう聞くと、彼女は少し頷いた。
慧人の心の奥に、微かな震えが走った。これは偶然ではない。まるで、誰かが導いたような一致。
「俺も、空想彼女を一人知ってる。金髪で、蒼い目の理知的そうな外国人」
その日、ふたりは連絡先を交換した。別れ際、ミリーアがつぶやいた。
「面白いね!こういう偶然って」
慧人は、うなずくしかなかった。心の中で、新しい物語が静かに動き出したのを感じていた。
それからというもの、慧人とミリーアは、少しずつ互いを知るようになった。
放課後にメッセージを交わし、時には電話をしながら、お互いの文化や言葉、好きな映画や音楽について語り合った。
初めはほんの遊びのようなやりとりだったけど、回数を重ねるたびに、その距離は縮まっていった。
慧人は自分でも気づかぬうちに、彼女を待つようになっていた。スマホの画面に彼女の名前が表示されるたび、心が温かくなった。
だけど、そんなある日、ミリーアからの連絡が途絶えた。
「今は、少しだけ距離を置きたいの」
たった一言。けれど、その意味はあまりに重かった。
慧人は落ち着かなかった。理由もわからず、ただ胸の奥にぽっかりと穴があいたような感覚が広がった。
放課後の屋上で、慧人は成瀬に打ち明けた。
「たぶん、俺……本気で惚れてた…のかな?」
成瀬は黙って頷き、缶コーヒーを慧人に手渡した。
「空想彼女に惚れちまったか。大丈夫、俺も二次元派だからな」
慧人は出る言葉が無かった。勘違いされてるようで癪だが、こんな話をしても、信じないと思ったためだ。
「はは…そうだな。お前と俺は同類だ」
成瀬と話し、少し頭を冷やしたおかげで、慧人は今やるべきことがわかったような気がした。
(このまま終わるんじゃ、つまらないよな)
数日後、ミリーアの学校の前に立っていた。彼女は驚いた顔で校門から現れた。
「……え、来たの?」
制服姿のミリーアは、どこか迷いを帯びた瞳で彼を見つめていた。
「ちょっと、話せる?」
ふたりは近くの公園へと足を運び、並んでベンチに座った。春の風が新緑を揺らし、木漏れ日が足元を照らす。
「ねえ慧人……私、来月帰国するの。短期留学だったから」
「……そっか」
「だから、あのまま綺麗な思い出にしておこうと思った。嘘から始まったものは、嘘のままでって」
慧人はポケットから一枚の紙を取り出した。そこには、彼が“空想の彼女”として書き出した設定がびっしりと書かれていた。
「これ、俺が作った“君”。というか、完全嘘の、俺の欲望集みたいなものだ。でも、君に会って、嘘じゃなくなった」
ミリーアは笑って、スマホを差し出した。そこには慧人の特徴が書かれた“理想の彼氏リスト”。
「私も同じ。嘘だったけど、あなたに出会って、現実になったの」
両者とも、少し照れながら話を続ける。
「あと数週間でもいい。現実の彼女になってくれないか?」
ミリーアは少し迷う素振りを見せるが、それも一瞬。コクと黙って頷き、そっと彼の手を握った。
それからの日々は、あまりにも早く過ぎていった。
ふたりは放課後の街を歩き、カフェで語り、短い時間を惜しむように過ごした。笑顔も涙もすべてが宝物になった。
そして帰国前日。ふたりはもう一度、屋上で向き合った。
「大学は日本にする。だから、また戻ってくるつもり」
「そうか、バイバイじゃなくて、“See you soon”って言えばいいか?」
彼女は頷き、慧人は彼女の名をしっかりと呼んだ。
「See you soon, ミリーア・エンブレム」
その名は、もう空想ではなかった。現実に生きて、彼の手を握っている少女の名前だった。
春風に舞う桜の花びらの中、ふたりの現実が静かに交差した。