9.夏の日の記憶【ヴェリュアン】
「いつもは会おうとしないのに、どうして急に会う気になったの」
シドローネが竜舎を出てしばらく。
ヴェリュアンはブランのすぐそばのスツールに腰掛け、腰に差した剣を抜いて剣の手入れを始めた。
瞳を細めて鈍色に光る刀身を見つめる。
彼は刃こぼれがないことを確認すると、天鵞絨の布を取り出して刃を磨き始めた。
ブランはそうしたヴェリュアンをちらりと見るも、答えるのも億劫そうに欠伸をすると、眠りの体勢に入った。
一般市民は知る由もないことだが、長く生きる聖竜は一日の大半を寝て過ごすのである。
『いつもの女は、臭い。それだけだ』
ブランの端的な言葉にヴェリュアンは苦笑する。
ブランが臭い、と称したのは恐らく。
「女性の香水?ブランは本当にあの匂いが苦手だね。でも、ミス・シドローネ……シドローネも香水をつけているようだったけど?ブランも気がついていたでしょう」
『違うな』
「なにが」
『主はまだ気付かぬか。若造め』
「…………」
それから、ブランは完全にまつ毛を伏せ、目を閉じてしまった。
つまり、もう寝るから話しかけるな、ということである。
こうなったらブランはテコでも動かないし、よっぽどのことが無い限りはヴェリュアンの相手もしない。
彼はため息を吐いた。
「ブランに比べたら誰だって若造になるだろ……」
ブランは、ヴェリュアンの言葉に答えることはしなかった。
青の髪に、【アリアドネ】という名前。
それだけでヴェリュアンは簡単に動揺する。
彼は未だ、幼い恋心を捨てることが出来なかった。
聖竜騎士爵を叙爵したのだって、彼女に言ったとおり、必死になっていたら手に入ったものに過ぎなかった。
ただ、あの日の記憶を。
夏の日の、あの眩しすぎる──思い出を、追いかけてきた。
ただそれだけの話。
「……でも、彼女じゃない」
髪色も、名前も同じなのに、それだけは確かな事実だった。
だからこそ、彼はその偶然を苦々しく思った。
彼女を見る度に、夏の日の記憶を刺激されるようで落ち着かない。
彼女ではないのに、彼女のように感じてしまう自分が、許せなかった。
シドローネは、まるで──彼女のようで。
そんなわけがないのに。
きっと自分は、長い間彼女に会えていないせいで、シドローネを身代わりにしようとしているのだろう。
恐らく無意識に。
髪色と名が同じというだけで、シドローネに彼女の欠片を見出してしまう。
いや、見出そうとしてしまう。
女々しい自分に、彼は薄く自嘲した。
気がつけば自分はずいぶん遠くまで来たように思う。
もとは、ロザリアンの辺境の村で生まれ、育った平民に過ぎないのに。
今や、国の象徴とも言える聖竜に乗る、聖竜騎士様だ。
聖竜騎士は、国民の憧れを一身に買い、貴族の関心も多いに引く存在。
彼は、自身が聖竜騎士になるまで知らなかったが、貴族にとって【聖竜騎士】というのは、とても価値のある存在らしい。
今まで自分を軍所属の平民上がりとばかにしていた貴族が、聖竜騎士爵を叙爵された途端、手のひらを返してきた。
令嬢は、末端貴族から権力者の娘まで、ヴェリュアンを見ると頬を染め【結婚相手】の候補に並び立てた。
こちらには一切その気がないにも関わらず、だ。
特に夫人の押しは強かった。
娘の夫に、と望む夫人は、この機会に言質を取ってみせるとなかなかヴェリュアンを放さない。
それ以外にもヴェリュアンの恋人の座を狙っている夫人も多くいた。
つまり、ヴェリュアンは、今のロザリアンでもっとも魅力的な獲物なのだ。
ただ彼女を想い続けてきただけの彼にまともな恋愛経験などあるはずがなく、結局彼は夜会や昼餐会などではひたすら逃げることとなったのだ。
ブランには『情けない』と鼻で笑われたが、田舎生まれの平民が、上流階級のご令嬢・ご夫人がたにまともに太刀打ちできるはずがない。
だから、そういう意味でもシドローネの提案は確かに助かった。
助かったのだが──。
(俺は今も、彼女に誠実でいれているのだろうか)
心の内で呟いた言葉は、誰に聞かれることなく、静かに消えた。