8.ファーストネームで
「ミス・シドローネ?」
ふと、呼びかけられた声にハッとして顔を上げる。
いつの間にか、深く考え込んでいたようだった。
ヴェリュアンは、心配するような眼差しを私に向けていた。慌てて、ゆっくりと首を横に振る。
「何でもありません。想像以上に大きくて少し、びっくりしてしまって……」
「ああ、初めて見ると驚きますよね。でも彼女は、落ち着いていて、気性も穏やかな優しい竜ですよ。竜の中でもかなり古い方だと聞きました」
彼の声につられてブランに視線を向けた。
同意するように、ブランが白いまつ毛をぱちぱちと跳ねさせた。
「……気になっていたのですが、聖竜騎士が聖竜と言葉を交わせる、というのは本当なのですか?」
どうしても気になって尋ねると、彼はちらりと私を見た後に頷いて答えた。
「はい。聖竜騎士は、聖竜と契約を交わして、初めて彼らと言葉を交わせるようになるのです」
「そうなのですね……!素敵だわ。あなたには、聖竜の……ブランの声が聞こえているのですね」
羨ましい思いで言うと、ヴェリュアンは苦笑した。
どうやら気恥しいらしい。
「……ブランに会わせてくださり、ありがとうございます。そうだわ、これを持ってきていたのを忘れていました」
聖竜に会えた喜びから、完全に失念していた。
私は手にしていたバスケットを持ち上げ、彼に見せる。
「以前──お持ちした際に、お気に召したようだったので、また持ってきたのですが、いかがですか?」
バスケットを覆う白の手巾を取り払う。
中には、赤の布に包まれたクッキーが入っている。
「ローズマリーのクッキーです。今度は、ヴィネハス卿の好みに会わせて甘さは控えめにしました。……そういえば先程、殿下に言われたのですが、私とあなたの間には距離があるように見えるそうです」
私は白の手巾を改めてバスケットに被せ直すと、それをヴェリュアンに渡した。
彼はバスケットを受け取りながら、眉を寄せる。
「ありがとうございます、いただきます。……距離があるように、とは?」
「呼び方の問題のようです。私があなたをヴィネハス卿、と呼ぶのは……婚約者にしては距離がありすぎる、と。いずれシャロン家を継ぐのですから、ファーストネームで呼ぶべきだ、と仰っていました。私も同意見です。私にファーストネームを呼ばれるのは、不満かもしれませんが、公の場でのみあなたをファーストネームで呼んでも良いでしょうか?」
「構いません」
あっさりと彼から許諾の言葉を貰う。
私は内心ほっとした。
これで反対されたら、今後やりにくくなることは間違いないからだ。
「ありがとうございます。では、今後は──」
「公の場でなくとも、ファーストネームで呼んでいただいて問題ありません。それくらいで不満に思うような狭量な人間ではないつもりです」
「…………」
まさか、そこまで許してもらえるとは思わず目を瞬いた。
私にじっと見つめられる形となったヴェリュアンは、眉を寄せ、逆に尋ねてきた。
「なにか、他に気になることでも?」
「いえ……。何でも。では、これからはヴェリュアン、と呼ばせていただきますね」
気軽にファーストネームを呼ばせるなんて、彼の想い人は良いのだろうか。
私と彼が親しいと、彼女は誤解するんじゃ……。
顔も名前も知らない女性ではあるが、この結婚で彼女が嫌な思いをすることは、なるべく避けたかった。
これは、彼女と彼の感情を利用した結婚だ。
彼女と彼は、何らかの理由があって結ばれない。あるいは、結ばれるには難しい理由がある。
それを逆手にとって、私が彼に申し込んだ契約結婚。
書類上の関係とはいえ、恋人がほかの女と結婚するのはきっと辛いはずだ。
それを理解した上で、【彼女に辛い思いをして欲しくない】などただの詭弁に過ぎないことは、理解している。
私のやっていることは、彼らの純愛を踏みにじることだ。
それを理解した上で、わかった上で。
それでも、彼らにかかる精神的な負荷は出来るだけ軽くしたいと思うのもまた、本心だった。
(私が安易にファーストネームを呼んでも構わないのか聞こうかと思ったけど……私が尋ねることでもないわね。余計なお世話というやつだわ)
恐らく、そんな些細なことでは揺るがないほどに彼らは想いあっている──相思相愛なのだろう。
私が内心頷いていると、彼が続けて言った。
「では私は、あなたのことをシドローネ、とお呼びすればよろしいでしょうか」
ぱちぱちと複数回、瞬いた。
そうだ。婚約者であることを周りに示したいなら、彼の呼び方を変えるだけでは意味が無いだろう。
「はい。それでお願いします」
婚約して半年。
それから私と彼は、互いをファーストネームで呼ぶようになった。