60.あの日の真実
「あら……それは?」
ハンナにこんなに叱られたのは初めてのことで、私は半分泣きながら答えた。
「お、お母様、に……」
しゃくりあげた私に、ハンナが驚いたように私とレモングラスを交互に見て──ちいさく、ため息を吐いた。
「……奥様は、お嬢様がいなくなられた報告を受け、たいっへん……心配されております。奥様はお体が不調ですのに、これ以上、心配をかけるような真似はおやめください。いいですね?」
「……はい。ごめんなさい」
しゃくりあげながら謝るとハンナがまた、息を吐く。
だけどそれは、私を咎めるようなものではなかった。困ったような、それでいて、優しさのある声だった。
「旦那様も、それはそれは、お嬢様をたいへん心配されて……お仕事の予定を取りやめて、城内に留まられているのですよ。後で、しっかり謝るのですよ」
「はい……」
「旦那様には、私からも伝えておきます。……次からは、外出したいのであれば、必ず相談するように」
相談。その言葉に、私はパッと顔を上げる。
そこには、困ったように微笑んだハンナがいた。
「……お嬢様は、シャロン公爵家唯一の姫君です。ひとりで外に出て、なにかがあったら大問題です。……ですので──次回以降、外出したい時は必ずこのハンナにご相談ください。公爵様に伺いますので」
「ハンナ……」
自分のしでかした事の大きさに恐怖を覚していた私は、今度は歓喜で視界を滲ませた。
そのまま泣きながら頷くと、今度はお父様に呼び出された。
お父様は、私が部屋に入ると、慌てた様子で立ち上がり──私をじっと見つめてきた。
まるで、怪我がないかを確認するように。
いつも綺麗に整えられているお父様の髪は、珍しく、乱れていた。
お父様はじっと私を見ると、その後大きくため息を吐いた。
「……心配を、かけるな」
ただ、それだけだったが、私はその言葉にさらに泣いてしまった。
お父様に大きな迷惑をかけてしまったのだ。
ぼろぼろ涙を零す私にお父様はさらに困った顔をしたけど、頭を撫でてくれた。
この時、私は初めて、自分が公爵家の一人娘で、そして私の立場には責任を伴うのだと、痛感したのだった。
☆
目が覚めると、ベッドの上だった。
見覚えのある天井が目に入る。
ここは、お母様の住む別邸だろう。
私はそっと、てのひらを額に乗せた。
長く眠っていたような気がする。
夢に見た出来事は、きっと過去に実際起きたことだ。
私が、この別邸を──城を飛び出して、ヴェリュアンに出会ったことも。
ハンナやお父様に心配をかけて、叱られたことも。
十一年前に、確かに起きたことだった。
夢に見た記憶は鮮烈で、今も尚、私は十一年前にいるような気持ちになっている。
シーツに長い髪が見える。
その髪は、夢で見た時よりも色が濃く、ちょうど──あの日見た、夏の空によく似ていた。
「…………」
ゆっくり、体を起こす。
起き上がれば、ほんの少し、夢で見た出来事が過去のものだったのだと思うことが出来た。
シーツに手をついたまま、物思いに沈む。
あの後、私は護衛騎士をつけることを条件に、限定的に外出が許された。
外に出るのは、晴れている昼間の間だけ。
夕方になる前に、必ず城に戻ること。
ハンナとお父様と約束をし、私は喜んで晴れている日は外出するようになった。
朝起きて、まずお母様に会いに行き、前日の外出の話をする。
お母様は、私がいなくなったと報告を聞いた時はとても取り乱したらしい。
しかし、私がまた外に行くという話をした時はにこやかに微笑んで、それを許してくれた。
『お土産話を楽しみにしてるわね。……でも、シドローネ。護衛騎士からは絶対に離れてはだめよ。必ず、彼の視界の範囲内にいること。分かった?』
お母様の穏やかな声に、私は大きく頷いた。
そして──私はまた、この城を飛び出したのだ。
私は、外に出ることを好む、活発な少女だった。
あの時の私に、怖いことなんて何も無かった。
ハンナに叱られて、お父様に心配されて、お母様には泣かれて。
その時になってようやく、私は自分の立場というものを理解したのだ。
夏の日の記憶の終わりは、唐突なものだ。
あの日も、私はいつものように外に遊びに出かけた。
だけどあいにくの天気で、昼過ぎからは雨が降った。
外に出るのは、晴れている日だけ。
そうお父様と約束していた私は、ヴェリュアンと別れることを残念に思いながら、城に戻ろうとして──そこで、襲われたのだ。
数人の、男たちに。
相手の人数が多かったのだと思う。
護衛騎士ひとりでは太刀打ちできず、彼は私を守りきれないと見ると、すぐに城に戻ったのだと思う。応援を呼ぶために。
護衛騎士がいない私とヴェリュアンは、すぐに追い詰められた。
追っ手から逃れようとめちゃくちゃに走って、転び、ついには崖先で捕まった。
彼らの目的は、私だった。
シャロン公爵家の一人娘である私が、狙いだったのだ。
泥に足が取られ、頬に土が付き。
動きやすいために、とお父様が用意してくれた白のワンピースは泥まみれで、酷い有様だった。
捕まれば、きっと酷い目にあう。
私はそれだけがわかっていたから、彼に言った。
『私はいいから、逃げて!』
だけど、ヴェリュアンは逃げなかった。
私より年下なのに──あの時の彼は、六歳だったのに。
怖かったはずだ。恐ろしかったはずだ。
それなのに逃げることなく、その場で拾った木の棒を構えて、男たちと対峙した。
しかし、じりじりと追い詰められて、もう後ろは崖だ。
このままだと男たちに捕まるか、崖から落ちるか。
二択になる。
崖の下は川があるとはいえ、この大雨だ。
川は氾濫しているに違いなかった。
私は転んだ拍子に、足をくじいていた。
もう、走れなかった。
逃げて、と何度も言ったが、彼は逃げなかった。
慣れない手つきで木の棒を握り──自分を鼓舞するように叫ぶと、男たちに走っていった。
小さな体だ。華奢な体だ。
少年の体は、男たちにあっさりと薙ぎ払われて、遠くに飛んだ。
そのまま、蹴り飛ばされたのを見て、悲鳴を飲み込む。
ひゅっと、細い息が鳴ったのを覚えている。
私は口を手で覆いながら、目の前の状況に絶望した。
私のせいだ。私が、彼を巻き込んだ。
私がシャロン公爵家の娘だから、私が無理に外に出かけてしまったせいで。
何の関係もないヴェリュアンが、ヴェリュアンが──。
大人に刃向かったヴェリュアンを、大人たちはいたぶることにしたようだった。
当時は、今よりも色が薄かったヴェリュアンの桃色の髪を掴み、持ち上げると戯れに殴りつける。
私はそれを見て、やめて、と悲鳴のような声を出した。
でも、誰も私の声なんて聞いてくれない。
やめて、やめて。
お願いだから。
私はどうなってもいいから、彼に酷いことをしないで──。
そんなことを口走った気がする。
でも、男たちは暴行の手を止めなかった。
雨と風の中で、ヴェリュアンの小柄な体は男たちにいいように殴られ、蹴られ、ゆらゆらと揺れた。もう、意識があるかどうかも怪しい。
私は何度も立ち上がろうとして、その度に足の痛みに転んだ。
そのうち、男に捕まって、手首をぎりり、と握られた。
『ちょうどいいから、あのガキも一緒に連れていくぞ』
そういった男の言葉に、私は絶望した。
私が巻き込んでしまったのだ。私のせいだ。
『やめて!彼が何したって言うの!離して!!』
『威勢のいいガキだなぁ。流石、公爵家のお嬢様だ。……でもなぁ、お嬢さん。面のいいガキは高値で売れる。あいつは男らしいが、まあ、子供なら男でもいいって言うもの好きもいるんだよ。恨むなら、こんなところで呑気に遊んでた自分を恨みな』




